冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

気分はもう最低

は結局,自分の枠の中で生まれて死んでいくのだな,と思う。

いきなり主語がクソでかくて恐縮至極ではあるが(文字通り一文字目の主語がクソでかい),その「枠」が身体という牢獄であれ,思想という縛りであれ,くだらない人生観であれ,趣味嗜好であれなんであれ,人は自分だけの世界で死んでいく。自分だけの世界で生まれて,自分だけの大切な輝くものを抱えながら,自分だけで死んでいく。誰かと一緒にいたって,そういう意味で,人は死ぬまでひとりだ。

 

自分の隣の芝生が青いことは分かっていても,「みんな良ければ最高だね!」ではなく,「隣の青い芝生より自分の家の赤い芝生の方が面白い!」とか「青い芝生とかつまんないし攻撃してやる!」と考えたりする。これは動物の縄張り意識みたいなものなのだろうか。

 

ヘッセの『デミアン』の有名な台詞で「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは,一つの世界を破壊しなければならない」というものがある。しかし実際のところ,卵の中で腐って死んでいく鳥のなんと多いことか。卵,すなわち自分の枠から出ていくことは本当に難しいことなのだと思う。

 

これは自身にとっての戒めであるのだが,人はどうあがいたって自分の枠の中で死んでいくのに,そこに優劣をつけようとしても仕方ないだろうと思う。「私の方が優れている!」と言って,丸い枠と四角い枠を比べて優劣を競っても,そもそも形が違うものを競う意味がない。

 

さて,ここからめちゃくちゃ気持ち悪いことを言う。

 

私はオタクではあるが,どちらかと言えばサブカル寄りの人間だ。キャラクターの可愛さよりも物語の面白さや演出の良さで作品を選びたい。世の中に見たい作品は無数にあるので,キャラクターの可愛さだけの作品に時間を消費しているほどこちらは暇ではない,という気持ちが奥底にある。時間という有限なリソースをどのように配分するのが最適解なのか,ということばかり考えているのだ。

だから「とにかく可愛い女の子が出てくる漫画が好き!」とか「なにも考えずにボーッと見られるアニメが好き!」という人と話しても微妙に方向性が異なることが多い。そしてそういう時,私は心の中で「わかってねーなこいつ」とか「なんも考えずに作品を受容するなよ」とか思ってしまう。これは最悪だ。醜い心だ。悪しき心だ。

相手は自分の枠の中で純粋に楽しんでいる。別にいいじゃないかそれで。そう思おうとしても,「わかってねーなこいつ」の心が出てきてしまう。じゃあおまえは何を分かっていると言うのか。他人を見下して優越感に浸ろうとするな。

 

今日『イージー★ライダー』という映画を観た。どうでもいいけどこの「★」なんなんだ……。らき☆すた』と「つのだ☆ひろ」以外でこれを使うことがあるのか……。

広大なアメリカで,主人公たちは自由を求めてひたすらにバイクを走らせる。その中で ,以下のような印象的なシーンがあった。

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「自由の国,アメリカ」。誰もが一度は聞いたことのあるフレーズだろう。主人公たちも自由を求めて旅をしているが,その長髪や格好はアメリカの「伝統的な」価値観からの強い反発を受ける。「自由の国」であるアメリカで,どうして彼らが自由を求めちゃいけないのか?

曰く,「人々からは主人公たちが自由の象徴に見えるから」。彼らは何物にも縛られず,自分で生きているから。そして自由の象徴たる彼らを見ることで,そうなれない,しがらみだらけの自分たちを認識せざるを得なくなることが怖いから

 

はっとさせられた。私は,純粋にキャラクターを楽しんでいるオタクのことが怖かったんじゃないか?シナリオがどうとか演出がどうとかわけわかんないこと言って純粋に楽しめていない自分を認識せざるを得なくなることが怖くて,無理に優越感に浸ろうとしていたのではないか?そこには優劣なんか存在しないのに。

 

人は死ぬまでひとりだ。どうせ作り上げた「枠」の中で死んでいく。そして他人に迷惑をかけない限りにおいて,その枠を批判する権利は他人にはない。どっちの枠が優れているとか劣っているという話自体が筋違いだ。あまりにみっともなく,俗物的だ。最低だ。

 

書いてて「最低だ、俺って。」という気持ちになってきたので,このへんでやめておく。

タイトルは矢作俊彦大友克洋気分はもう戦争』から。最低なのでこのようなタイトルになった。

気分はもう戦争 (アクション・コミックス)

気分はもう戦争 (アクション・コミックス)

 

 終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷山浩子を聴け

きなりだが,みなさんは谷山浩子(敬称略)を聴く必要がある(食い気味)。

少し前にTwitterでは,「全オタクはこのミュージシャンを履修しろ!」的なやつをよく見かけた。ツイート製作者のとても熱い想いが,メモ帳スクショ4枚で怒涛のように伝わってくる。そこに挙げられていたミュージシャンは,ポルノグラフィティ天野月子奥華子などなど。ふむふむ。確かに私もすべて履修してきた。オタクが好む音楽性がだいたい同じなのはなかなか面白い。

 

ところで,声を大にして言いたい,全オタクは谷山浩子を聴けと。全オタクは谷山浩子を聴け!!!

 

つい先日,谷山浩子のコンサート「猫森集会2018」に参加してきた。谷山浩子は今年で62歳になる大ベテランで,昨年はデビュー45年記念のアルバムも出ている。必然的にファンの年齢層も高く,猫森集会でも40~50代の人が多かったように思う。

 

彼女の代表曲はNHKみんなのうたでも放送された「恋するニワトリ」「おはようクレヨン」「しっぽのきもち」などだろう。彼女の可愛らしい歌声がメルヘンな世界観をうまく作り上げている。このあたりの曲は谷山浩子の白い曲などと呼ばれたりしている。あとゲド戦記で印象的に使用された「テルーの唄」の作曲,変わりどころではヤマハ発動機社歌も歌っている。

 

◯恋するニワトリ

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鉄製の風見鶏に恋をしてしまったニワトリの歌。叶わぬ恋のはずが「ひとりでタマゴを産んだ」ニワトリにいろんな解釈を見出すタイプのオタクが散見される。

 

しっぽのきもち

大変可愛らしい歌。「しっぽしっぽしっぽよ~あなたのしっぽよ~」とリズムがよく,勝手に身体が踊りだしてしまうような陽気な歌だ。

 

 ヤマハ発動機社歌

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社歌が谷山浩子だったらテンション上がる。

 

て,さきほど谷山浩子の白い曲という話をした。白い曲があるということは当然,黒い曲もあるということだ。ということで,以下では谷山浩子嫉妬と情念と不条理と怨嗟と電波が渦巻いた黒い曲を紹介していく。

◯王国(『歪んだ王国』収録)

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谷山浩子の黒い曲の代表曲。

重々しいイントロからの歪んだ王国にぼくたちは住んでる」。他に誰もいない閉じたふたりだけの王国は,緩やかに終わっていく。他人を拒み,「翼ある鳥は翼をもぎ取れ 世界へと続く通路を閉ざせ全て」と言い放つふたり。永遠を目指して,外へと出ること/変化していくこと/大人になっていくことを拒むふたり。その先には一体何があるのだろうか。永遠なんてもの,あるわけないのに(ウテナじゃん)。

 

曲の終わり,「きみを永遠にぼくは愛し続ける きみだけをぼくは愛し続ける」のリフレインには狂気すら感じられる。きっとその王国は救われない。ふたりは幸せにはなれない。永遠なんてどこにもない。でもそんなことは関係ない。外野が何を言おうが関係ない。その声はふたりの耳には届かない。

 

私たちは誰も,ふたりだけの「王国」への通行許可証を持っていないのだから。

 

◯鳥籠姫(『しまうま』収録)

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しばしば女性版「王国」とも称される「鳥籠姫」。確かに「王国」はふたりを閉じ込めた王国を作った男の子の歌に,そして「鳥籠姫」は閉じ込められた女の子の歌に思える。ショックで自らを鳥籠のなかに閉じ込めてしまった,女の子の歌に。

 

「長い長い孤独の時 帰らぬ人を待ち続けて」

「海の見える丘の家に ほこりだけが静かに積もる」

「わたしはわたしをここに閉じ込めた」

 

大切な人を喪って,自らを鳥籠のなかに閉じ込めてしまった女の子。時は残酷に刻まれ続ける。でもふたりの時間は,もう止まったまま決して動くことはない。鳥籠姫は,鳥籠のなかに永遠にいる。幸せだった時間に思いを馳せつつ。

 

「わたしを作ったあなたの腕に 帰るその日をひとり待ちながら」

 

◯夜のブランコ(『夜のブランコ』収録)

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急にリアルな世界観になるのもまた谷山浩子の魅力だ。これは溢れ出る真っ黒く燃え上がる情念の歌。「やさしい人たちを裏切り嘘をついて 逃げ出して走ってきたの」「指輪は外してきて まぶしくて胸が痛い」,これはどう聴いたって不倫の歌。不倫は文化,と言っていた芸能人がいたが,後ろ暗さを抱えつつも情欲に突き進むしか無いという,ひとの情念に暗い火を着ける最良の着火剤であるのは間違いないだろう。

「愛なんて言葉忘れて 逢いに来て夜のブランコで待ってる」と危険な匂いの漂う言葉遊びも魅力的だ。もう帰れなくたっていい。あなたに壊されてもいい。こなごなにされてもいい。死んだっていい。理屈なんか要らない。これはそういう歌だ。

 

ただあなたのことが好きだから。

 

冷たい水の中をきみと歩いていく(『冷たい水の中をきみと歩いていく』収録)

このブログのタイトルにもなっている曲。あまりに美しく,儚く,滅びを歌い上げる。イントロの美しく透き通った旋律からの,透明感のある歌声。五感すべてが研ぎ澄まされるかのような感覚。

「ぼく」は何も望まない。水の中から見上げる光に,何を見出すのか。

「実らずに終わった恋」が「あんまりきれいなので ぼくの命も奪っていく」。「あんまり静かに輝くので ぼくの身体は壊れていく」。

 

美しすぎる「終わった恋」を胸にいだいたまま,「ぼく」は冷たい水の中に沈んで消えていく。

 

◯洗濯かご(『翼』収録)

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タイトルがあまりに生活感がありすぎてどんな曲かわからないと思うが,不倫の曲だ。しかもおそらくは,不倫をされる妻の歌

重々しいイントロ。呪詛のように,怨嗟のように綴られる言葉。タイトルからは想像もつかないおどろおどろしさ。洗濯かごって,つまらないものだ。そこには,つまらない日常が詰まっているとも言える。このタイトルを付けた谷山浩子は本当に天才だと思う。

 

「夜ごとベッドを抜け出して 息を殺して森の奥 あなたは誰を見つけたの?」。あなたはベッドを抜け出して,誰に会いに行っていたの?

「逃げるふたり靴を投げる 投げた靴がイバラになる」という歌詞は,まさに妻の心理的な視点だろう。不倫をしているふたりの逃避行。それは必要なはずの靴を投げるほど必死で,そしてそれはイバラとなってわたしを傷つける。なぜあなたはわたしを捨てたの?己を責め苛む。

曲の最後,「安いアパートのベランダで 洗濯かごを避けながら あなたは誰を抱きしめた」,はおそろしくて震えてしまう。もうベッドを抜け出すのではなく,相手を「わたしたちの愛の巣」である家に招いていて,わたしはそれに気付いている。どこまでもおどろおどろしく,歪んだ情念を感じずにはいられない。

 

わたしがいる(はずの)場所で,あなたは,わたし以外の誰を抱きしめたの?

 

カイの迷宮(『カイの迷宮』収録)

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雪の女王』をモチーフにしたアルバム。雪のように真っ白い情景が思い浮かぶイントロ。雪の中に閉じ込められてしまったような,カイという少年の永遠。

「ぼく」はただ見つめている。でも,一体何を?

「そしてぼくはひとりになって 忘れたことさえ忘れてしまった」

「ぼくのすみかは氷の下 誰かぼくを ぼくを見つけてくれ」

 

アルバム中に「カイの迷宮(文字のない図書館)」という短い曲がある。同じメロディだが,こちらの曲ではさらに繊細な印象を受ける。「自分のことを書いてみた 分厚い本すべてのページに 確かに書いたはずなのに ただ一枚白い紙だけが」

喪われてしまった記憶。自分が自分であることを確かめるために,「ぼく」は書く。そして書いたそばからすべては消えて行く。とても恐ろしいし気持ち悪い。

しかし。

 

「忘れたことさえ忘れてしま」えば,もう何も恐れることはない。

 

◯不眠の力(『ボクハ・キミガ・スキ』収録)

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ひとを好きになってしまい,夜眠れなくなってしまい,世界を滅ぼしてしまう女の子の歌。眠れないって恐ろしいね(棒読み)。

彼に対する思いが強すぎる女の子。その思いゆえに,世界を砂漠に変えて,海を枯らして,生き物を殺し尽くしてしまった女の子。彼との「一度だけの口づけの夢を叶える」ために,すべてを滅ぼしてしまった女の子。

そして破滅の願いは叶い,彼女は彼に口づけをすることができた。でも,もう思いは決して届かない。なぜなら,彼も彼女も死んでしまっているから。ただ,彼の「瞳の黒いガラスは静かにひび割れる」だけ。すべてが滅び,廃墟になった世界は,どんな思いをも届けてはくれない。

 

たとえ宇宙を滅ぼす力を手にしても,あなたには決して届かない。

 

◯ガラスの巨人(『水玉時間』収録)

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ガラスの巨人ってなんだろう。

巨人というのは脅威だ。進撃のアレではないが,その大きさは存在するだけで人類への脅威となる。一方で,その巨人はガラスで出来ている。繊細で脆く,割れてしまいやすいガラスで。それは自己矛盾とも言える存在で,存在そのものが破綻しているのだ。

 

曲の最後,

「悲しみが攻めてくるよ もっと大きくならなくちゃ」

悲しみが攻めてくるよ もっとひろがれぼくのからだ」のリフレインはグッとくる。

 なぜなら,「ガラスの巨人」は大きくなるほどにどんどん割れやすくなっていくのだから。でも大きくならなくちゃ,ひろがらなければその悲しみを防ぐことができない。とてつもなく大きく,でもとてつもなく脆いガラスの巨人。

 

はじめから矛盾した存在。ガラスの巨人。

 

◯まもるくん(『フィンランドはどこですか?』収録)

谷山浩子最強の電波曲。

ラムネの瓶にビー玉を落としたようなイントロ(通称:まもる音)で知られる。

まもるくんとは一体だれなのか。そもそもひとなのか。完全に投げっぱなしである。

「新宿の地下道の壁から出て」きたり,「警官の制服の肩から出て」きたり,「建売住宅の屋根から出て」くるまもるくん。「道行く人は誰も彼も見ないふり」をするまもるくん。……ナニモノ?

あえてコメントするのも野暮な感じがするが,まもるくんとは「監視カメラ(=監視社会の比喩)である」とか「社会を息苦しくするマナーである」みたいな解釈をよく見かける。

 

完全に謎である。

 

 

てさて,記事を書くのに思った以上に時間がかかってしまった。

結論は最初に言ったとおり。

 

全オタクは谷山浩子を聴け!

 

終わり。

 

月曜日の実験室

日,オードリー若林のエッセー『ナナメの夕暮れ』を読んだ。 特別何かが尖っていて心に刺さる!というわけではないが,私のようなタイプの人間は共感してしまうことが多い。

 

エッセーの内容としては,冷笑混じりで呼ばれる「自分探し」を40歳近くまで続け(ざるを得なかっ)た著者の,苦悩の解消について。そしてタイトルにもなっている「ナナメからモノを見てしまう」(=斜に構えてしまう)ネガティブな自分をただ変えたいと願うのではなく,他人をまずは肯定して,自分を肯定してみる……という「姿勢」についてだ。

 

言ってしまえばそんなのは,よく啓発本には書いてある内容だ。そしてデキる人からすれば言われるまでもない当たり前の話だ。だから啓発本はいつの時代もなくならない。それは一種の新興宗教だからだ。人の弱さにつけこんで,「こうすればいいんですよ」と解決策を提示しているように見えて,その実それを達成することがどれだけ難しいことか。その達成は到底困難なのに,「自分を変えたい」と救いを求めて教祖様が執筆した経典に群がる信者たち。これを宗教と言わず何と言おう。

ただ従来の宗教と違うのは,教祖様はとっかえひっかえされ日々消費されるし,経典は日々ダイヤモンド社やら日経BP社やらから発行されているということだ。極めて資本主義的・現代的・システマティックな宗教だ。「幸せになりたい/ポジティブになりたい」という教義のみは不変のようだが。

 

しかし,そんなありふれた話であったとしても,そんなことがデキない人というのが世の中にはいくらでも存在する。考えれば考えるほど思考の闇に落ち込んでいってしまい身体を縛り付けてしまうというタイプは,少なくとも私の周りにはいっぱいいる。オードリー若林もまさにそうだったようだ。教祖様の「啓発してやるよ!」という目線でなく,実体験として,そして切実な思いとして伝わってくる誠実さが好ましい。

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 ついこの間,同様にオードリー若林の『社会人大学人見知り学部卒業見込』も読んでいた。

最近radikoでオードリーのオールナイトニッポンをよく聴いている。休日にごはんを作りながら流している。下ネタやら馬鹿な話やらくっだらねえ話ばっかりだが私はこういうのが大好きなのだ。 若林が意味わからない海の家で7万ぼったくられた話など,包丁持ったまま腹抱えて笑ってしまった。春日がめちゃくちゃエロくて若林がそれをイジるのも見ててホッコリする。

radiko.jp

 ていうか,そう。

最近のライカさん,オードリー(特に若林)にハマっている。

いやまあそれだけなんだけど。

 

前職の後輩でオードリーが好きというやつがいた。その時にオードリーがオールナイトニッポンをやっているという話を聞き,「なんだよ,おまえサブカルオシャレクソ野郎じゃねぇかよ」と嫌悪感をあらわにしてしまった。オードリーのことをよく知らなかったのだが,オールナイトニッポンサブカルだと思いこんでいたため(偏見),そしてその後輩がイケメンだったため(最悪),なんとなく嫌悪の対象となってしまっていた。心のせまさヤバくないか……?

ところでライカさんはサブカル野郎をいつも否定しているのだが,そろそろ自分もただのサブカル野郎であることを「肯定」しなくちゃいけない。

 

ところで,ライカさんはバーチャルYouTuber月ノ美兎(委員長)に割と前からハマっていてよく見ている。彼女は見た目もさることながら,トークが軽妙でとても面白いのだ。そんな彼女がやっているラジオ形式の生放送月ノ美兎の放課後ラジオ:みとらじ」に誰かが「オードリーのオールナイトニッポンっぽい」とコメントしていたのだ。

twitter.com

そこで,いままでなんとなく「うわーサブカル野郎!!サブイボが出るから近寄らないで~!!!」とか言って遠ざけていた「オードリーのオールナイトニッポン」を聴いてみたのだ。

 

面白かった。素直に面白かった。んでハマった。

 

……そうなのだ。昔っからこうなのだ。ディズニーランドが楽しい!と素直にはしゃげない人間だった。行く前にサークルの友人らにさんざん「ディズニーの”シマ”とったるわ!(当時ヤクザ映画にハマっていた)」「わしら鉄砲玉ですけんのお!」とバカ丸出しでイキリまくったは良いものの,結局エレクトリカルパレードに一番目を輝かせていたのはライカさんだったと後から笑われた。タワー・オブ・テラーの冒頭のシリキ・ウトゥンドゥでめちゃくちゃはしゃいでいたのはライカさんだった。そういう人間なのだ。

 

なんでも偏見を持っちゃダメという気づき。口に出して言うのは簡単だが,本当にそれは大切で,偏見は目のフィルターを曇らせて人生の可能性をせばめてしまう。文字通り色眼鏡で世の中を見ると,どうしたって斜に構えて,ナナメに見てしまう。

 

でもそんなのってツマンナイ。一度きりの人生なんだから,ツマンナイ偏見なんて捨てて楽しく生きたほうがお得じゃん。若林は40歳近くでそれに気付いたと言っている。ライカさんは若林よりも10年早くそれに気付けたんだ。そう胸を張って,まずは動き出そう。

 

前半と後半でテーマがだいぶ変わっちゃったけど,まあいいや。

タイトルは今日サイン会&トークイベントに参加してきた西島大介先生の『土曜日の実験室』から。めちゃくちゃ面白いからサブカル好きは読むべき。ライカさんも勿論サブカル好きなので読んだ。自分を肯定していくスタイル。

土曜日の実験室―詩と批評とあと何か (Infas books)

土曜日の実験室―詩と批評とあと何か (Infas books)

 

 おわり~

男のケモノ飯

獣だ獣。今日はけものフレンズ,ではなく獣のことを書いていく。 

最近平日の昼休みは,行きつけの近所の鮮魚店で魚弁当を買って家で食べることが多い。私は会社から徒歩5分のところに住んでいるため,地の利を得ているのだ。ところで,鮮魚店がやってる魚弁当というのはなんであんなに美味いんだろう。さばの味噌煮,サケの塩麹穴子の煮付け,マグロの漬け……レパートリーも大変に豊富だ。

その店の難点としては,どんなに早く行っても店主のおじさんに「あーごめんね!今日はもうさばの味噌煮しかないんだ!!」とか言われることだ。だいたい二,三種類しか残っていない。12時05分でその有様って,どんだけ早く買い占めていくんだよクソ。いつか真相を確かめてやるぞと会社から脱兎のごとく向かいつつ,今日もまた「あーごめんね!」を聞くことになる。くそう。

 

余談だが,「魚屋」というのは差別用語になってしまうようだ。魚屋に限らず,八百屋や床屋も同じで,それぞれ青果店とか理髪店とか言いかえられている。「~屋」というのは一般的に差別用語とされているのだが,「政治屋」とか「ブン屋」とかはちょっとそんな気もするけど,魚屋とか八百屋は別にどうとも思わない。誰が決めているのかよくわからない差別用語というのはいっぱいあるわけだ。

 

さて,魚弁当を片手にぶら下げて帰宅すると,まず真っ先にパソコンの電源を着けてニコニコ動画を開く。そして料理動画を見ながらおもむろに魚弁当を食べはじめる。

 

これはいつも見てる動画のシリーズ「結月ゆかりのお腹が空いたので」

季節の素材を買ってきて料理する様子をVOICEROIDの結月ゆかりが読み上げる動画なのだが,とにかく製作者の料理の腕が半端なく,とにかく出てくる食事が美味しそうなの素晴らしい動画なのだ。そしてその料理したごはんを食べながらの食レポも聞き応えがあり,楽しい。美味しいごはんを一瞬で平らげるゆかりさんも可愛い。540円で買ってきたサケの塩麹弁当も,心なしか普段の2割増しで美味しくなる。正統派にごはんが美味しくなる動画なのだ。

 

また,これもいつも見てる動画のシリーズ「アル中カラカラ」

「アル中カラカラってなんぞや?」と思う方もいるだろうが,要するにおっさんがハイボールを排水口のようなズッ!という汚い音を立てて飲みまくり,グラスに残った氷をカラカラさせるという地獄みたいな動画なのだ。この動画はどう見てもただの生焼けのクソ汚い肉を「ローストビーフ」と言い張って食べながら,ハイボールズッ!と飲むだけという虚無な内容だ(お腹を壊したというオチが付いていて素晴らしい)。しかしなぜだか,540円で買ってきたサケの塩麹弁当はやっぱり心なしか普段の2割増しで美味しくなってしまう。悔しい。あとBGMが常にアイマスのテッテッテーテッテッテテーなのがまた製作者の年齢を感じさせて泣けてくる。色々な意味でお涙頂戴の感動動画なのだ。

 

さて,動画の話はそのへんにしておく。つい最近,中高の友人と桜鍋のお店に行ってきた。吉原のすぐそばにあるお店なので,往時は遊郭に立ち寄った客が来ていたのではないだろうか。馬肉はスッキリとしているが癖はなく旨味が強く,卵に絡めるといくらでも米が進むという具合だ。ビールもグイグイ進む。

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私は獣肉が割と好きで,定期的に食べたくなる。しかし性格が悪いオタクなので,「ジビエ」と言われると「うるせぇ,横文字でしゃらくせぇこと言ってんじゃねぇぞ!獣だろうが!!」となってしまう複雑な側面もある。

 

大学の近くには獣肉で有名な「米とサーカス」という店もあった。ここで提供しているラクダや虫は食べたこと無いのだが,月ノ美兎委員長もクリオネ食ってるし,もっとアグレッシブに行くべきかもしれない。いつか行こう。いつか……(あまり乗り気じゃない時の顔をしている)

tabelog.com

 

両国にある「山くじら ももんじ屋」。前職で上司に連れて行ってもらった店だ。ここではイノシシやクマを腹いっぱい食べた。イノシシ鍋は身が締まっていて美味しかったが,クマ汁は若干クセがあった。なんていうか獣。って言う感じ。ちなみに「山くじら」というのはイノシシのことだって。山でクジラがザバーンってしてるみたいで,なんだか可愛い。

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個人的には獣の戦闘力(獣感)ってウサギ<ワニ<馬<鹿<イノシシ<<(越えられない壁)<<クマだと思ってる。ウサギとかワニとか,言われなきゃ鶏肉だと思って食っちゃうし。大切なことなので二回言うと,クマは割と獣。

 

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「ももんじ屋」は店先にイノシシの剥製がぶら下がっているのでギョッとする。

 

あとめちゃくちゃしょぼいことを言ってしまえば,獣肉を出している店の雰囲気が好きというのもある。だいたいこういう店ってのは,重々しい店構え,畳には掘りごたつ,額縁に入った由緒有りげな書,そして謎のオブジェクトが飾られていると相場が決まっているのだ。特に最後が最も大切だ。右の写真の謎オブジェクト・クソデカ和太鼓はマジで謎なので,特に気に入っている。

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なんか最後のとこだけ見ると雰囲気がいいお店が好き!とか言ってるだけのバカみたいな記事になってしまったような気がしないでもないが,自分で書いててお腹が空いてきてしまったのでこのへんでやめておく。なんというセルフ飯テロ。

 

タイトルは岡崎京子の『女のケモノ道』から。

女のケモノ道

女のケモノ道

 

 おわりー。

終わりしメシの標べに

花のズボラ飯』『甘々と稲妻』『ラーメン大好き小泉さん』『めしにしましょう』『侠飯』『めしぬま。』『くーねるまるた』……ここ数年メシの漫画が流行り続けている。ブームの火付け役がなんなのかはわからないが,やはり『孤独のグルメ』の影響は大きいんだろうなーなんて思う。

 

ちなみにライカさんは個人的には『高杉さん家のおべんとう』が好きだ。この漫画は女の子を引き取った主人公たちがおべんとうを通じて成長していく物語だが,主人公が地理学のオーバードクターなのでしばしば地理学の話題が出てきて楽しい。日本地理学賞を受賞しているというのも変わってて面白い。

 なんで急にメシの話をしたかというと,最近ライカさんが家でよくごはんを作っているからというだけだ。6月から一人暮らしを始めたが,それまではほとんど料理をしたことがなかった。

 

 ただ小さい頃からメシ漫画は好きだったので,メシについてのムダな知識はやたらとあった。そのムダな知識のソースは『美味しんぼ』である。

 

 美味しんぼは後半はすっかり意味不明になってしまったが,初期の美味しんぼ手をつないでテレポートするとか結構ぶっ飛んでた。あと山岡はアウトローっぽくてかっこよかったし,栗田さんは可愛かった。

とにかく『美味しんぼ』を読むことで,魯山人風すき焼き以外はクソ」とか「バラの上に乗った水は美味しい」とか「(四万十川産でない)山岡さんの鮎はカス」とか,およそ一生活きることのないムダ知識のみはたくさん身につけていた。

 

それまでに作ったものといえば,サークルでシャケから作ったかまぼこ(ゲロを吐きそうになるくらいに不味かった。臭くて食えたもんじゃない。産業廃棄物)とか,

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サークルで行った奄美大島で釣ったよくわかんない魚をさばいた(衛生観念がまるでないバカ集団なのでわさびで殺菌とか言ってた)とかそんなもんしかない。

 

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そんななか,今日作ったごはんがこちら。刮目せよ!!(ユースケ・サンタマリアのアレ)

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「鳥のもも肉とネギ,エリンギ,ピーマンの味噌バター炒め」「南瓜のいとこ煮」「レタスとわかめのサラダ」である。意外に悪くないでしょう?

お世辞にも綺麗な見た目とは言えないが,味は美味しかった。自分で言うのも何だが正直めちゃくちゃ美味しかったのだ。

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これはちょっと前に焼いた秋刀魚だが,自分がこんなまともな料理が作れるとは思っていなかったのでなんだか感動してしまった。良い焼き色でしょう。

 

つらつらと書き始めたので特にオチはない。

イカさんが大好きな漫画家の久米田康治先生も,最後のコマで「オチろ」みたいなこと言って無理やりオチをつけていた。若しくは唐突な下ネタだったり。これはそのリスペクトである。タイトルは安部公房氏の『終わりし道の標べに』より。

かってに改蔵(1) (少年サンデーコミックス)

かってに改蔵(1) (少年サンデーコミックス)

 
終りし道の標べに (講談社文芸文庫)

終りし道の標べに (講談社文芸文庫)

 

終わり。

 

 

 

これからの漫画の話をしよう

タイトルのまんまだが漫画の話をしていく。

 

ジムから帰ってきて風呂入って最高のビールを飲みながらこれを書いている。私はビールは基本的にエビスしか飲みたくないタイプ(しゃらくせぇタイプ)。それはさておき今日はいきなり本題に入る。自分で言うのも何だがしゃらくせぇタイトルをつけてしまったものだ。言うまでもないがマイケル・サンデルのアレからタイトルつけてる。あれ汎用性高いから。ちなみにこれは書評というか読んだ本の感想なので,特にこれからの漫画の話はしない。タイトル詐欺だがあしからずご了承いただきたい。

 

最初は好きな漫画でのランキングを考えていたが,正直ランク付けとかできなくって苦しんだので,思い切って好きな漫画3選を紹介することにした。3選って少なくね?とか言わない。最初は5選で書いていたんだけどマジで終わらなくなってきたので急遽減らしたのだ。長すぎたのでだいぶ削った。それでもちょっと長いけど暇な時にでも読んでくれ。

 

題して

「好きな漫画3選!!」(クソタイトル)

 

 ①蟹に誘われて(panpanya 

蟹に誘われて

蟹に誘われて

 

 panpanya先生はすごい。正直いま単行本として書店に出ている『足摺水族館』『蟹に誘われて』『枕魚』『動物たち』『二匹目の金魚』どれも大好きなので正直選べない。誰だ好きな漫画3選なんて言ったのは。好きな漫画家3選とかにすりゃあよかったのに(正直好きな漫画家3選は一人ひとりについてすごい量になってしまい書ききれる気がしないのでやめた)。

 

この漫画のなにがすごいかって,やっぱり「世界観」だ。ちょっとぼんやりとしたタッチで描かれた主人公の女の子と緻密に描き込まれた風景。その対比でキャラクタが浮き上がって前景化しているのが面白い。あくまで風景と人物は異なるレイヤーに存在していて,どこか現実感のない夢のような曖昧な世界であるということを示唆しているようだ。

 

表題作『蟹に誘われて』は住宅街にいきなり蟹がいて,なぜだか足の早い蟹を追いかけていくうちに知らない道に出てしまう……という話。そして相変わらず蟹は凄まじくリアルに描かれているのだが,最後主人公が蟹に追いついて捕まえる時だけ主人公と同じテイストになるのもまた面白い。そしてオチもまた秀逸である。

 

初めて読んだ時,安部公房の『鞄』(短編集『笑う月』に収録)を思い出した。こちらは重たい鞄があるために歩けない道がたくさん現れて頭の中の地図がずたずたに寸断されてしまう……という話だ。いずれの作品でも慣れ親しんだ(はずの)ものによって,一瞬にして日常が非日常に転落する面白さ・おかしさを夢のような作風で描いている。『蟹に誘われて』の蟹も『鞄』の鞄も,『不思議の国のアリス』の白うさぎのような水先案内人の役割を担っている。

笑う月 (新潮文庫)

笑う月 (新潮文庫)

 

あと初めてpanpanya先生の作品を読んだ時に「初期の模造クリスタルっぽいな……」と思ったのだが,それは独特の台詞回しも影響しているだろう。

 

『蟹に誘われて』で蟹を追いかける主人公の台詞で以下のようなものがある。

 

「どこに通じているのやら 知ったことか!」

 

自分の言葉を「知ったことか!」ですべてをぶん投げる感じは模造クリスタルっぽさが溢れている。模造クリスタルは『ミッションちゃんの大冒険』『金魚王国の崩壊』などのweb漫画で知られているサークルだ。『金魚王国の崩壊』はいまだに更新がされ続けているのでいつか単行本化されてほしい。絶対に買うので。商業でも『スペクトラルウィザード』を始めとした単行本が出ている。

www.mozocry.com

スペクトラルウィザード

スペクトラルウィザード

 

 さて, panpanya先生はもともとリトルプレス作品を発表していたようで,装丁にもかなりこだわりが感じられる。カバー裏などちょっと感動すら覚える。これは紙で単行本を買うメリットだ。『日本のZINEについて知ってることすべて』という本でもpanpanya先生が紹介されていた。

 ところで『蟹に誘われて』は漫画なのに索引がついている。おばあちゃんが意味不明なものをくれる『わからなかった思い出』という話に出てくる「ソムベーソバイ」やら「オロコッパーヘンデルモルゲン」も載っていて意味不明である。「いやいやそれ要らなくね?」というツッコミも含めて一つの作品として完成している。こういう「遊び」が随所に感じられるのも魅力だ。

 

夢のような摩訶不思議な世界というのは完全な異世界・非日常とは限らず,いまいる日常の紙一重で存在している……という感覚を味わえる作品だ。

 

 ②ちーちゃんはちょっと足りない阿部共実

 阿部共実先生の作品はとにかく心に刺さる。劇薬だ。心が弱っている時には読まないようにしている。灰色の日常/私たちは何も持ってない(から)/ここではないどこかへ行きたいけど/でもどこにも行けないということを徹底して描いている。

 

阿部共実先生の作品の魅力は大きくニつに分けられると思っている。一つは前述の灰色の日常の表現力,もう一つは言葉を手繰ったポエティックな表現力で,その二つが絶妙なバランスで共存している。『月曜日の友達』はとても名作だが,後者よりの作品だと思う。『空が灰色だから』は一話完結で,回によってそのバランスは大きく異なる。最終回『歩み』は前者にステータスを全振りしたような回で,歴史に名を残すレベルのトラウマものだ。

うん。わかってた。

グサッ!!!(心が死んじゃった音)

月曜日の友達 1 (ビッグコミックス)

月曜日の友達 1 (ビッグコミックス)

 

 その中でも前者の「どうしようもなさ」を煮詰めたような作品が『ちーちゃんはちょっと足りない』。ポップな表紙だが,内容はズシッとくる。何か大きな出来事が起こるわけでも世界が終わるわけでもない。誰かが死ぬわけでもない。じゃあ何があるのか?それは,日常だ。どこまでも日常。

 

団地住まいの主人公・ナツはぼんやりと毎日を過ごしていて,やりたいこともない。「なにかがちょっと足りない」と感じているが,努力をするのも面倒くさいという内向的なイマドキの若者だ。ナツは「ちょっと(頭が)足りない」友達のちーちゃんとしっかり者の旭と三人でつるんで「なにかがちょっと足りない」日常をダラダラと過ごしていた。そんなある日ちーちゃんが事件が起こす。それは日常の延長線で起こりそうな事件だが,それをきっかけに,ナツの「なにかがちょっと足りない」日常はおかしくなっていく。

 

この作品ではナツのモノローグがとにかく多い。内向的なナツは行動には出ないものの色々なことを考える。前に進んでいく友人たちと進めない自分を比べて,どんどん思考の闇に沈んでいくシーンは圧巻だ。

ちょっとくらい

ちょっとくらい

恵まれたって

いいでしょ私たち

私は何もしない

ただの静かなクズだ

みんな変わっていくよ

私は変われないよ

置いていかないでよ

ずっと一緒にいようよ

ずっとずっとずっと

 タイトルになっている「ちーちゃん」とナツは昔からの仲良し。ちーちゃんは身長も体重も知力も小学生のような子どもで家も貧しい。ナツとちーちゃんが一緒にいるのはなぜなのか。なんにもない日常の中で描かれていた「友情」の正体がだんだんと明らかになっていく。

 

周りはみんな前に進んでいく。ナツは前に進めるのか。それとも相変わらず同じところに留まっているだけなのか。その解釈は読み手に委ねられているが,ぱっと見感動的にも見えるラストのシーンは大変示唆的だ。

 

ちーちゃんはちょっと足りない』は一見キャッチャーなように見えて,ひとの心の闇を容赦なく暴き出している大変な名作だ。

 

 ③レッド(山本直樹

最近完結した『レッド』。この漫画は有名なあさま山荘事件を起こした連合赤軍を追ったドキュメンタリータッチの漫画だ。東大の安田講堂陥落以降,日本の学生運動が下火になっていったあたりからこの物語は始まる。そしてあさま山荘事件でこの物語は終わる。これほど有名な事件だし,結末はみんな分かっていてもそれでもやはりグイと惹きつけられるのは山本直樹先生の筆致と透徹した表現力の妙だろうか。

 

これは色んなことに対して言えるが,何かが下火になって多くの人の心が離れていってしまうと残った人は人心を集めようと躍起になってやばい行動に出がちだ。主人公たちも「いまの生ぬるいやり方じゃ人を惹きつけられない!」という思考ばかりがどんどんエスカレートしていった結果,仲間内でリンチ殺人を起こしたりあさま山荘事件を起こしたりしていった。

 

「上滑りする思考」が閉鎖空間で醸造されて行った結果,普通だったら考えられない狂気に満ちた行動に出てしまう。「総括」という名のリンチで容易に仲間を殺していく。国を良くしたいという純粋な思いから出発して,結果的には歴史に名を残す大きな罪を犯してしまった登場人物たちを,山本直樹先生は同情するでも感心するでも非難するでもなく,それを評価しない透徹した眼差しで描いている。

 

長くなるのでほどほどにするが,この「透徹した眼差し」とは「自己の徹底的な他者化」だと思っている(これに似たことがロバート・キャパの自伝『ちょっとピンぼけ』と西島大介の『ディエンビエンフー』にも書いてあったので興味ある人は読んでみて)。つまり作者の感情移入が見えないし作者の存在も感じられず,淡々と客観的出来事だけが描かれているように見えるということだ。そして,それ故にこの作品は狂気を描き切ることが出来ているのだと思う。

 

*補足:ロバート・キャパは恐らく世界で一番有名な戦場カメラマンで,戦場で亡くなった。2年前にそのことをブログで書いたことがあるので,良ければそちらもぜひ読んでみて。

trush-key.hatenablog.com

ちょっとピンぼけ (文春文庫)

ちょっとピンぼけ (文春文庫)

 
ディエンビエンフー 1 (IKKI COMICS)

ディエンビエンフー 1 (IKKI COMICS)

 

まとめると,淡々と描かれた人間の狂気・怖さがこの作品の一番の魅力だ。

 

 あとこの作品ですごいのはよく見ると登場人物の近くに丸数字が振られていること。これは何かと言うと,死ぬ順番を表している。すごい。そんなのゴーリーの『ギャシュリークラムのちびっ子たち』でしか見たことねぇよ。あれはアルファベットだけど。

ギャシュリークラムのちびっ子たち―または遠出のあとで

ギャシュリークラムのちびっ子たち―または遠出のあとで

 

 

あー疲れた。ひとまずは3選書いてみたが,それだけでかなり大変だった。すぐ話が逸れて余計な話をしてしまうからなんだけど,まあそれは仕方ないので。

 ビールもなくなったので終わり。

 

  

風と光と二十六の私と

今日は全身が痛すぎるので会社を早退して,生まれて初めてのマッサージに行ってきた。マッサージ師曰く,どうやらライカさんは身体は柔らかいらしいのだが,日頃の不摂生が祟ってどうしようもない身体になっているらしい。全身バキバキですね~と嬉しそうに言われた。なんでちょっと嬉しそうなんだよ。

 

でも確かに言われてみれば朝起きてスマホiPadで新聞を読み,会社でPCと原稿を読み,家帰ってPCとスマホと本を読み……そりゃどうしようもない身体にもなるわ。「26歳とは思えないバキバキですね~」とどこか嬉しそうなマッサージ師に「でもジムに行っているが…」と抗議したが,「焼け石に水ですね~」と更に相手の嬉しさを助長させてしまった。だからなんでちょっと嬉しそうなんだよ。

 

しかし実際かなり全身が強張っていたようで,身体はマッサージですごくスッキリした。しかしなんかムカつくのでその後すぐにジムに行った。心なしかいつもよりもトレーニングマシンと向き合えたような気がする。目指せ,丁寧な暮らし。

 

さて,ここ数日絵を描いてTwitterに上げている。画力は中学生の頃にノートの端っこに描いていた落書きとほとんど変わっていない。きちんとした練習などしたことがないからだ。ペンタブはずっと前から持っていたのだが,全然描けていなかった,否,怠けて描いていなかったのである。「時間がなくて…」とかこういう言い訳を許すと何もかもズブズブになってしまう。ただただ己の怠惰ゆえである。

 

◯なんか今日描いたやつ。風邪引いたときに見る夢に出てくるやつかよ(伝われ)。

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一方,絵を描こうとするとなんだか困り顔か苦笑いのキャラクタしか描けないという問題もある。パースなどがわからないため,動きを描くことができない。横からとか斜めからとかの描き方がわからないため,真正面からしか描けない。よって困り顔か苦笑いのキャラクタの横に何らかの台詞を載せるということしかできないので,必然的にパターンが限られてしまっている。うーん,練習あるのみである!

 

今日は『ペンギン・ハイウェイ』観てめちゃくちゃ良かった。ネタバレになるので詳しくは書けないが,『少女革命ウテナ』『素晴らしき日々』『ソラリス』『パプリカ(というか今敏作品全般)』あたりが好きなひとには絶対にリーチする内容だろうなと思った。美術でいえばルネ・マグリットエッシャー。途中でエッシャーの「滝」が出てきた時にはなんだかニッコリしてしまった。

 

エッシャー「滝」

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その後に石田監督と森見登美彦氏が登壇して色々なお話をされた。石田監督のキョドり具合と森見氏の落ち着き具合のバランスがなんだか面白かった。ていうかよく考えたら『ペンギン・ハイウェイ』,原作はそれこそ森見登美彦氏で監督は『ポレットのイス』『フミコの告白』の石田監督で脚本はヨーロッパ企画上田誠氏ってめちゃくちゃに豪華なんだよな。声優も蒼井優さん釘宮理恵さん能登麻美子さん潘めぐみさんと豪華。

 

◯ポレットのイスはノイタミナのOPでいつも流れるやつ。


「ポレットのイス」


「フミコの告白」Fumiko's Confession

 

はてなブログで初めて書くんだけどこれめっちゃ書きやすいな。リンク貼りやすいし。jugemよりずっと使い勝手が良い。

 

明日は『フリクリ オルタナ』を観に行く。『フリクリOVA自体はもう18年も前の作品だが,演出がとにかく斬新で格好良いのだ。曲も格好良い。面白いエピソードとしてはEDの実写に出演していたのが後に芥川賞作家となった本谷有希子さんという…笑GAINAX好きは絶対見るべき作品だ。

 

会社で映画研究部に入部してから映画館に行く頻度が増えて嬉しい。タイトルは坂口安吾の短編集『風と光と二十の私と』から。 このなかの『私は海をだきしめていたい』という一編が好きで,合同誌に書評を寄稿させてもらったことがあるくらい思い入れが深い作品。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

 

 

そんじゃまた。

きっと十年後にも一緒に笑って飯を食おう

ふと手元のカレンダーを見たら今年もあと3ヶ月ないことに気がついてしまった。もう2018年の75%が終わってしまったことに驚きを隠せない。よく考えたら今年は退職→ヨーロッパ旅行→転職という激動の1年だったし,光陰矢の如しの極み(そういえばフタエノキワミの動画をこないだ久々に見たら11年前の動画でビックリした)みたいな1年だった。

 

インターネットを長くやっているため,こういう「タイム・イズ・マネー」みてぇなことを書くとどこからともなく祭り囃子のような合いの手が聞こえてくる気がしてしまう。悪い合いの手が。カラオケで全然歌えてないひとの歌声をかき消さんばかりのタンバリンの音が。国会で野次る野党の罵声が。踊る阿呆どもの合いの手が。聞こえてきてしまう。

 

「意識高いブログか~!?」

「まだ東京で消耗してんのか~!?」

 

だいたいおんなじような意味のことをふたつに分けて言うな。イケ◯ヤさんだって頑張っているんだぞ。あんな所得倍増しそうな名前してるけど頑張っているんだぞ!!よく知らないが。

 

それはどうでもいいが,中学高校も男子校だったので,こういう罵り合いの文化に身を浸しすぎてしまっている感じが正直ある。殴り合いのなか育まれる友情というのは美しい(とされている)が,私が浸ってきた罵り合いの文化というのはオードリーのようにニヘラニヘラとお互いを小突きあっているような感じなので,傍から見ればたぶん気持ち悪い感じなんだと思う。

 

この文脈で,2018年は中学高校の同級生たちと迎えたのをなんとなく思い出したのでそれを書いていく。このブログはなんにも考えずに文章を書き始めているため,しばしばこのように突然流れが形成されることがある。

 

2018年の年始は中高時代の友人の別荘で迎えた。別荘で鍋パーティーをしようと,上野のアメ横やらなんやらで食材を買いまくった。馬鹿な友人が見境もなくウニやイクラやマグロやカニを買い物カゴに投げ込んでいったため,馬鹿みたいな量の具材を調達してしまうことになった。

 

 

すっかり忘れていたのは,ライカさん含め全員男子校出身者で,全員の調理スキルがD-だったことだ。

スキルなしの状態で挑んだ調合に失敗した結果,ウニやイクラやマグロやカニなどの恵まれた食材からゴミが産まれてしまったのは言うまでもない。

 

 

自分で貼っといてなんだけどグロ画像でしょこれ。勿体無いから全部食べたが,クソ高い具材で出汁を取ったにもかかわらず,海水を煮詰めた味しかしなかった。何事も過剰は禁物という有益な教えを授かることが出来た(とりあえず太字にしておくことで意味ありげな雰囲気を出すやつ,使えるな)ちなみにこれが2018年最初の食事だったためインパクトが強い。

 

お茶にごし的にこの時撮ったちょっとイイ写真でも貼ってみる。

これは青春感的なテーマで撮ってもらったような気がする。25歳成人男性たちが。青春感を。謳歌し忘れてしまった青春を。

 

 

みんな異常に黒い服を着ているがこれはただ単にオタクだからというだけで深い意味はない。みんな異常に赤い顔をしているがこれはただ単にそういう仕様だからというだけで深い意味はない。

 

最後に少しいいことを言わせてほしい。

 

タイトルになっているのはオタクのみなさんならすぐわかると思うが,『少女革命ウテナ』でウテナがアンシーに対して言ったセリフだ。ちなみに元セリフは「きっと十年後にも,一緒に笑ってお茶を飲もう。約束だ」だが,お茶ではなく飯のほうが大事なので改変した。

 

中学高校の同級生というのは出会ったのが13歳の頃(中高一貫だった)だから,もう13年も前になる。出会いは10年以上も前だ。それだけ古い友人とこのように飯を食うことが出来る喜び…感謝っ…!圧倒的感謝っ…!

 

「感謝ってw やっぱり意識高いブログじゃねーか!」

「もしくはJポップの歌詞じゃねーか!」

 

……また祭り囃子が聞こえてきた。オタクたちの祭り囃子が……

そういえば「まつりばやし」っていうタイトルのアニメあったな。「三丁目のタマ うちのタマ知りませんか?」ってアニメの。あれ夏の終わりにピッタリだから見てみると良いと思う。あときさらぎ駅でも祭り囃子が聞こえてきたような。祭り囃子こっわ。こっわ。

 

終わり

平坦な日常でぼくらが生き延びること

今日はスーパーに秋刀魚が並んでいたので買った。一匹150円というのは高いのか安いのか分からない。もう秋の足音がするような気がする。魚グリルがあるのでそこで適当に焼いただけだが,表面に浮き出てきた油がじゅわじゅわ言ってとても美味い。ほろ苦い内臓も最高だ。

 

さて,一人暮らしを始めて3ヶ月くらい。最初の頃はいろんな事があった。そこで今日はそれを振り返ってみたい。昨日のブログで「過去は振り返らない」みたいなこと書いてた気がするけど,都合が悪いことは無視するので知らん。ライカさんは魂をTwitterジャパン(詫び老人がいるところ)に譲り渡しているので,ありとあらゆる記録がTwitterに残っている。では,プレイバック・三ヶ月前!

 

◎入居1日目

 

開幕早々インパクトが強い。終わってんなこれ。社会性が無すぎる。ていうかアニメDVD持ってきたのにテレビ無いし,パソコン持ってきたけどWi-Fiルーター無いし,フローリングのクソ硬い床で一生漫画を読んで暮らすしかないなと思っていた。

(ちなみにこの後,このツイートを見て呆れたフォロワー氏が冷蔵庫をくれた。本当にありがとう。Twitterやってて良かったと初めて思った。……いや嘘嘘,このブログを読んでくれてるフォロワーのこと全員好きだから)

 

部屋が虚無過ぎて早くも発狂したのか,ライカさんはいきなり寿司を食いだした。しかもちょっといいやつ。洗濯機もテレビもカーテンもテーブルも買ってないのに寿司を食うな,寿司を。その金を家電に回せ。

 

 

◎入居4日目

 

 

進捗ですじゃねーんだよな。テーブルが無いのでドンキでクソ安く買った折りたたみ椅子にパソコンを乗せてる。健康かどうかは知らんが少なくとも文化的な生活は営めていない気がする。考えるのが面倒くさくなってポン子(バーチャルYoutuber)の動画を見ている様子が伺える。でもカーテンは買ったようだし,上記の通り冷蔵庫も設置済み。冷蔵庫の低い唸るようなウウウウウウウウン……という音が響き渡ると「文明開化の音じゃん!」とテンションが上ったのを覚えている。一気に文明が進みすぎて泣いちゃった。

 

◎入居7日目

 

この日まで洗濯機を使用したことがなかったため,こいつのことを白くてデカイ箱みたいにしか思っていなかった。実際は白くてデカくてゴウンゴウン!とうるさい箱だった。ちなみにここでツイートしている「アタックにiPhoneを立てかけて配信」というのは,ライカさんがハマっているバーチャルyoutuber月ノ美兎オマージュである(月ノ美兎は最初期に,洗濯機の上にiPhoneを置いてアタックの箱に立てかけて配信するという気狂いじみた姿勢が話題になっていた)。

 

◎入居9日目

 

進捗ですじゃねーんだよな(二回目)。こうして見比べてみるとテーブルもテレビもベッドも扇風機もあるし,だいぶ文明化されてきているようだ。でもベッドが届いたはいいが,フレームが届いていないのでお布団みたいになっている。なんだこれ。そして着々とオタクタペストリーが増えている様子が見て取れる。

 

◎入居11日目

 

 

ある日,起きるべくして事件が起きた。思い立って炊飯器で米を炊いてみたが,米を炊くにあたって入れるべき水の量がわからなかったので適当に入れた。結論から言うと,バカみたいな量の米が出来てしまった。しかも水が足りなかったらしく最初生米みたいになってしまったが,追い炊き(そういう言葉があるかは知らん)を何度かやったらまあ食えるレベルの米になった。

 

 

蓋開けた瞬間思わず「ふざけんなおまえ……」とつぶやいてしまった。バグった米の量に理解が出来ず,しばらく放心してしまった。ライカさんはキレンジャーではないし四条貴音でもないしカービィでもないし五十鈴華でもない。こんなバカみたいな量の米が食えるかアホ。無心でラップに包んで冷凍庫に投げ込んでいった。

 

そして入居1日目の寿司食ったときと同じくらい綺麗な流れで見ないふりをしてつけ麺を食べに行っている。現実を見ろ。

 

今日は秋刀魚を焼いた。この頃に比べると自分で秋刀魚を焼くなんて文化的なことをしている。なかなかたいしたものだ。同じような日常を送っているようであっても,進歩を感じ取れる一連のツイートであった。

 

タイトルは椹木野衣氏による岡崎京子論『平坦な戦場でぼくらが生き延びること』より。

三丁目と四丁目の間で(夕日は見えない)

昨日こんなブログを書いた(http://komaryuzouji.jugem.jp/?eid=497)。その前半で最近読んでいる『凪のお暇』という漫画について書いていて,本筋ではないので早々に話を終えてしまったのだが,今になって書きたいことがムラムラっと出てきてしまった。

 

昨日のブログではこんなことを書いた。

この漫画(『凪のお暇』)の良いところは,「何もない生活っていい!私たちは物質的には豊かかもしれないけど精神的には貧しくなってしまった!!ここには私たちが忘れてしまった大切なものがある!!!」とかクソしょうもない精神論を説くわけではないというところだ。

私たちはともすればすぐに昔を懐かしみ,それを無批判で礼賛する。高度経済成長期を振り返っては「あの頃日本は元気だった!」と言い「現代日本では失われてしまった絆があった!」と遠い目をして語る。実際がどうであれ思い出というものはいつだって美しいから,それを振り返ることが必ずしも悪いことだと思わないけれども,その「美しい思い出」を作る過程で無意識に切り捨ててしまっている”なにか”には常に敏感でありたい,と思う。

 

お気づきの方もいるだろうが,タイトルは『三丁目の夕日』(西岸良平)と『四丁目の夕日』(山野一)から取っている。勿論後者は前者のパロディ作品だ。

 

まず,『三丁目の夕日』は基本的には過去を礼賛する物語である。昭和三十年代の日本を舞台に,狭い町で繰り広げられる様々な人間模様。大きな事件が起きるわけではない。なんてことのない,でもいまでは決して手に入らない「日常」がそこにはある。基本一話完結なのでストーリーというストーリーはない。たまに「交通戦争」とか「受験戦争」といった不穏な影はよぎるものの,全体を通じて明るく牧歌的な雰囲気が漂っている。

 

 

実は私はこの作品のファンだ。というか西岸良平の作品は大好きだ。温かみのある絵柄はやはりほっこりする。別に私は人が死んだり不幸になる物語が好きなわけではなく,好きな物語で人が死んだり不幸になっていくだけなのだ。誤解しないでほしい(『よつのは』というエロゲーで主人公が似たようなこと言ってた)。

 

実写化作品である『ALWAYS 三丁目の夕日』しか知らないというひとも多いようだが,是非原作も読んでほしい。絶対そっちの方が面白いから。私は原作のもっさりした青年・六さんを堀北真希演じる美少女・六ちゃんに作り変えてしまった劇場版は好きではない。そもそもALWAYSってなんだよ。勝手な横文字を入れるな!あと同作者の『鎌倉ものがたり』の実写化『DESTINY 鎌倉ものがたり』ってなんだよフザケてんのか!?……と文句を言い出すとキリがないのでこのへんにしておく。

 

 

翻って,『四丁目の夕日』は読んだことがないひとも多いと思う。私も先月まんだらけで入手するまで,ネットで得た断片的な情報しか持っていなかった。が,やはり手に取って紙面として読むと衝撃は大きい。優秀だった主人公が印刷工場を経営している父の死をきっかけに借金まみれになり,どんどん不幸になっていく物語である。父は書くのも憚られるような方法で死んでしまう(そしてその死に様は見開きでドーン!と描かれる)のだが,まあ印刷機はひとを巻き込んでミンチにしてしまうこともある……とだけ書いておく。『マブラブオルタネイティブ』『神宮寺まりも』とかいえばまあ何となく分かるのではないか。表紙も無機質で薄ら寒い感じがする。

 

 

ここでは「いまでは決して手に入らない『日常』」なんて綺麗事はいっさい描かれていない。「絆」は主人公を助けてはくれないしそれどころか彼を不幸のどん底に陥れていく。彼は「ドブネズミみたいに美しく」もなく,ただの薄汚いドブネズミとしてラストではデウス・エクス・マキナ的な不条理によって完膚無きまでに叩き潰される。

 

ほぼ同時代を描いたふたつの作品で,時代がここまで真逆に描かれている。じゃあどっちが正解なんだ,と言えばどちらもひとつの時代を両極端な視点で眺めているだけに過ぎないので,どちらも正解ではない。夕日はいつだってひとつしかない。三丁目の住人は微笑みながら穏やかな目でそれを眺め,四丁目の住人は悲しみの涙に霞んだ目でそれを眺めていただけのことだ。

 

ただ言えることは,『三丁目の夕日』は極力『四丁目の夕日』的な汚さを排除した世界であり,『四丁目の夕日』は逆にその時代の汚さを全て飲み込んだ世界だということで,それは陰と陽の文様と同じことだろう。光あるところ必ず影はある。ここが最初の話に繋がってくる。

 

「何もない生活っていい!私たちは物質的には豊かかもしれないけど精神的には貧しくなってしまった!!ここには私たちが忘れてしまった大切なものがある!!!」みたいな話って本当にテレビをつければいつもやっている。みんな本当にそう思って言ってる?じゃあ「私たちが忘れてしまった大切なもの」ってなに?もっと具体化してみて。たぶんその実は「虚無」とかそんなんだよ。言葉にしないことでまるでとっても意味があるような秘蔵仏にしないでさ,ちゃんと語ってくれ。

 

※余談だが,昔行った太宰府天満宮で面白いインスタレーションをやっていた。

由緒ありそうな古めかしい建物の中にキラキラ光る玉が置いてある。作品タイトルは「本当にキラキラするけど何の意味もないもの」。物事の本質を鋭く捉えたようでとても良いなあと思って,強く印象に残っている。

公式サイトにまだその情報が残っていたので掲載しておく(http://www.dazaifutenmangu.or.jp/art/program/vol.6)。

 

その時代にそんなに帰りたいんだったら勝手に帰ってもいいけど,少なくとも私はスマホもコンビニもインターネットもないその時代に帰りたいとは思わない。そして多くの人は,その現代の便利さから逃れられないとも思う。光の部分ばかり見て影は見て見ぬふり,あまりに一方的な視点でしかものを見られないひとというものも,世の中には確かに存在している。

 

 

2019年には平成は終わる。その先がどうなるのか,全くわからない。三丁目と四丁目で夕日は確かに見えていたが,それはいまでは見えない。

もう私は26歳だ。すでに老いてしまった。肉体年齢はともかくとして,感性はどんどん老いていく。いまだにおもしろフラッシュの話なんかで盛り上がってしまうのは,時代の断絶でしかない。

私はもはやTwitterFacebookInstagramを通じてしか,現代の若者の思考を垣間見ることは出来ない。きっとそれらだってすでにアップ・トゥ・デートなものではない。TikTokというものが流行っているようだが,26歳にはもうついていけない。文化が違う。本当に若い人たちが何を考えているか,何をやっているかなんてのは同世代にしかわからないのだ。「うんうん,ボクは若い人の気持ちがよく分かるんだ。心はまだ十代だからね」なんて言ってるおっさんの信用できなさったらない。だから「わからない」を前提に,次代を担う人々と接していく必要がある。謙虚に。

 

ひとは誰のこともわからない。自分のことだってよくわからないのだから。