ハサミは切れぬが役に立つ
つい先日の出来事。私のTwitterをフォローしているひとはそっちでも書いたことなので重複してしまうが,それだけ印象的な出来事だったのでブログにまとめておきたい。
***********************************
会社にて。
私「『犬とハサミは使いよう』ってことわざでも言うもんねー」
同僚「???……ははは……」
私「(ん……???)」
帰り道。
私「(なんだったんだあの微妙な反応は……なんか不安になってきた……おかしなこと言っちゃったのか???)」※オタク特有の脳内会議です
私「(ググる)」
私「(あれこれ……ラノベのタイトルじゃん!えっウソ…『馬鹿とハサミは使いよう』ってのが正しいことわざなんだっけ!?えっウソめっちゃ恥ずかしっ)」
私「(ウワ,これあれだ。蒼井そらと蒼井優を間違えちゃったみたいな。なんか銀魂でも言ってたなそんなこと……。椎名りくと椎名そらと椎名うみを間違えちゃったみたいな。ていうか陸・海・空全部そろっているのか椎名……へきるもいるし林檎もいるしまゆりもいるし誠もいるし桔平もいるし椎名ってすごいな)」
あっ,家着いた。
***********************************
いやビックリした。何がビックリしたかって,自分の中で無意識のうちにいつの間にか言葉が置き換えられていたということにである。「馬鹿」と「犬」で。バカ犬じゃん。
……まあこういう覚え違いって他にも色々ありそうだが,それはそれで長くなりそうだし本題ではないのでやめておこう。
さて,この「馬鹿とハサミは使いよう」。ことわざの意味としては以下のようなものだ。
ばかとはさみはつかいよう【馬鹿と鋏は使いよう】
切れない鋏でも,使い方によっては切れるように,愚かな者でも仕事の与え方によっては役に立つ。
そこで気になることがある。「馬鹿」はさておき「ハサミ」は割と役に立ってるでしょ!ということだ。切れないハサミよりももっと役に立たないものはいっぱいあるだろうと。これが絶望先生だったらこんな具合に社会派なネタ大喜利が始まるところだろう。
望「たとえばパソコンを使えないのにサイバーセキュリティ担当の大臣」
奈美「うわ役に立たなそう」
可符香「いや役に立ってますよ。あの大臣は『メディアリテラシーが低いと大変』ってことを身をもって教えてくれてるんです!立派に職責を果たされています!」
まあそれは置いておいて,ハサミって結構すごい。
漫画やアニメでも映画でもゲームでもハサミは大活躍しており,数え上げればキリがないくらい,ハサミは作品に浸透している。ぱっと思いつくものを以下に羅列してみよう。
断裁分離のクライムエッジ 1 (MFコミックス アライブシリーズ)
- 作者: 緋鍵龍彦
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / メディアファクトリー
- 発売日: 2012/09/01
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
Dream Tech ローゼンメイデン 蒼星石 約150mm PVC製 塗装済み完成品フィギュア
- 出版社/メーカー: ウェーブ(Wave)
- 発売日: 2015/01/17
- メディア: おもちゃ&ホビー
- この商品を含むブログ (2件) を見る
……ぱっと思いつくだけでこんなにある。これはすごいことだ。切れないハサミは切れないハサミで,スプラッターホラー的には映えるだろうし。コンパスの針で執拗に刺して戦う!とか学校にあるデカイ三角定規の尖ったとこで殴って戦う!とかやっても地味だし。それはそれでkashmir先生の漫画っぽくて面白い気もするけど。
ていうかこのくだり,◯本の住人あたりですでにやってそう。
じゃあハサミより使えないものってどんなのがあるかな……文房具で言えば答えは一択,クリップだ。クリップはクリップでもゼムクリップ。
↓こういうやつね。
なにを隠そうわたくし,ゼムクリップが嫌い。私のGoogle検索履歴は「ゼムクリップ すぐ取れる」「ゼムクリップ 使えない」「ゼムクリップ 邪魔」などネガティブなワードでいっぱいだ。だってあれだ,この形状なんだから,紙を縦に留めてたら他の紙がはさまってピン!って取れてどっか行っちゃう。それで書類が散逸しちゃう。一時的に会議用に配布する資料を留めておくにはいいけど,長期的に保存する書類をこんなあやふやなもので留めちゃ駄目でしょ。だからゼムクリップは嫌い。というよりは思考停止してなんでもゼムクリップで留めちゃえ!って人が嫌いって方が近いかもしれない。そう考えるとゼムクリップ自体には罪はないのだ。罪を憎んで人を憎まず,もとい人を憎んでゼムクリップを憎まず……。
一方,私はダブルクリップはそこそこ好きだ。なぜって書類が散逸しないから。レバー部分がちょっと邪魔だしかさばるけど,力強く束ねてくれるのは大変重宝だ。黒に銀の無骨なデザインが格好良い。メタリックな全身銀のやつ(レア)はヤバクソ格好良い。職場でも見つけるたびに集めているので,私のデスクには大量にコレクションされている。
↓こういうやつね。
あとたまに見かけるふざけてんの?ってレベルでクソでかいゼムクリップ。15cmくらいあるかな?あれは最高。主にビジュアル面の面白さで。Amazonとかアスクルで画像が見つからなかったのでブログ中では画像はないんですが……。高校生の頃に池袋のSmithって雑貨屋さんで買ったんだけどどっか行っちゃったなあ。使いみちないし。あと同じようにクソでかい安全ピンとかも最高。あれは服を留めるのにも使えるし。
長々と何が言いたかったかって言うと,ゼムクリップさんのことこき下ろしたけど,どっちかって言えばゼムクリップさんを適した場面で使えない人が悪いわけで。一時的に留めておくにはかさばらなくて便利なわけだし,適材適所って大事!という話。100万回言われてきたような話だけど,「消極的」とか「文句ばっかり」っていうネガティブな特徴だって見方を変えれば,前者は「色んな意見を受け止めてくれる」となるし後者は「よく人を観察している」となる。だからそれぞれに適した場所ってのが絶対にあるんだよな,なんて思ったりする。本当は世界に居場所がない人なんていない。
まあうまくまとまったところで終わり。
タイトルは言うまでもなく『逃げるは恥だが役に立つ』をオマージュしただけ。それではまた。
思いますじゃないんだよ,と彼は言った。
多くの人の口癖で「~だと思います」というのがある。「違うかも知れないので断言はできないが多分そうだ」という,間違っていたときのための一種の消極的・予防線的な言葉ともとれる。とはいえ,実際のところは予防線だとか何だとか考えることなくほぼ無意識に言っていると思う。……まあこんな具合にだ。
似たようなニュアンスに「とか」というものがある。以下に例を示す。
「ほら,わたしとか結構流行好きなひとだから~」
イラッとするひともいるだろう。ここでのイラッとポイントは大きくふたつある。
①「わたしとか」の「とか」ってなに?登場人物は他に誰かいるの?
②「流行好きなひとだから~」の「ひと」ってなに?「流行好きだけど『ひとではないなにか』がいて,わたしはそれではない」という含意があるの?
といった感じだ。①の「とか」は文語に置き換えると「等」「など」が当てはまる。公文書でよく見られる表現だ。わたしも前職では教科書という,ある意味公的な書籍の編集部にいたため「等」「など」は愛用していた。揚げ足を取られないためにだ。世の中には特に政治的な分野となると他人の揚げ足取りに必死なひとがいて,自分の「研究成果」を発表するために問い合わせてきたりする。「その政治的な記述にはこれも含まれているはずだ!誤記じゃないのか!」とかという揚げ足取りにも「ここに『など』と書いてありますので……」と逃げることができる。大変便利な言葉なのだ。
さて,このブログで触れるのは何度目になるのかわからないが,タイトルの「思いますじゃないんだよ」と言っている「彼」とは前職の上司だ。氏は大変言葉に敏感なひとだったため,氏の下で働けた時間は(ポジティブに言えば)言葉に対する感性が鍛えられたと言える。この種の感性というのは出版社では必須なもの,と言い切ってしまってよいだろう。
たとえば。現在の進捗状況を報告するにあたり「200ページ目までは今週中に印刷所から出てくると思います」と言うと,彼は原稿を見ている顔を上げてわたしを睨み付ける。普段から目付きが悪いので睨み付けているわけじゃないのかもしれないけど,そう見える。そして聞き取れないくらい低い声で「思いますじゃないんだよ」と言う。そして「貴方の主観はどうでもいいんだよ。客観的事実を述べなさいよ」と続く。
そう。たしかに「思います」じゃないのだ。なぜなら報告というものは客観的事実であって,「思う」ことではないからだ。報告の中でわたしは自分の意見を言ったわけではない。「200ページ目までは今週中に出てくる」と印刷所のひとに確認しているのだから,それは多少の変動はあれども客観的事実だ。ならば主観を意味する「思います」と言うな,ということだ。内容が正しいのは当然であるが,伝達する言葉という形式にも気をつけなければならない。それは文章を扱う編集者という仕事からしても当然心がけるべきではあるのだが,しかし悲しいかななんとなく口をついて出てしまうこの言葉。その度にギロリと睨み付けられ「思いますじゃないんだよ」がくる。そこではじめて気づくことができた。形式にも大きな意味があったのだ。
特に学生の頃であるが,わたしは「在野」というものに対して強いあこがれがあった。政府お抱えの研究者よりも在野の研究者の方が格好良い。それは明治政府における大久保利通と征韓論で下野した西郷隆盛の関係にも通じる部分があろう。昨今ブームと言われる南方熊楠も同じだ。だからそれを表す「在野精神」という言葉に興奮したし,そういう想いもあって在野精神が旺盛だと言われる早稲田大学に進学した。いまもその想いを完全に否定はしない。ただ当時のように神聖視はしていない。在野が絶対だとは思っていない。
政治でも,学生の頃はとにかく在野であるリベラル・左翼が正しいと思ってきた。政府はいつだって権力にズブズブで,保守・右翼はナショナリズムの塊で反知性主義の極みだと唾棄してきた。実際,リベラル・左翼はいつだって正しいことを言っているのだ。それが実現可能であるかどうかは別にして。それは現実を顧みていない理想論に過ぎないのだ,ということをここ数年で痛感し,やはり彼らを在野だからと言って絶対視するのはやめた。
さて,在野に対する憧れとは何だったのだろうか。それはきっと,組織や出世などの「形式」を重視せずにただ愚直に「内容」を追究せんとするその姿が,バンカラであり婆娑羅であり,格好良いと感じるゆえだったのだろう。国や組織の言ってることは格式張っててダセェ。おれはおれだ。みたいな理屈があったのだろう。城山三郎氏の著作で知った「粗にして野だが卑ではない」という格好良い言葉は,いまでもわたしの中で大きな意味をもっている。
だからいまとなって感じることは,形式なるものは必ずしも「うわべばっかりの格好つけ!」ではないのだということ。「形式」と「内容」は二項対立の対局に位置するものではなく,どちらが正しいとか間違っているとかではなくグラデーションを持っているのだということ。「これは悪だ!」「これは善だ!」と快刀乱麻を断つようにクリアカットに物事を断定することは簡単だが,それは思考放棄に等しいし,同じようなひとばかりが周りに集まってくることになる。その中でお山の大将になるのは気持ち良いのかもしれないが,わたしはそんなことには魅力を感じられない。結局の所,借り物ではなく自分の心で考え自分の言葉で語り伝えるしかないのだろう。もちろん最初は借り物でもいい。しかしそれをだんだん自家薬籠中の物にしていくことこそが肝要なのだ。何やら偉そうなことを書いているがもちろんわたしだって未熟者であり,そのためには日々インプットを欠かさないようにしなくては,と感じる今日此の頃であった。
ところでタイトルでへたくそなパロディをするのも難しい。引き出しが乏しいので。一応これをイメージしたのだが……。
- 作者: フィリップ・K・ディック,友枝康子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1989/02/01
- メディア: 文庫
- 購入: 14人 クリック: 60回
- この商品を含むブログ (113件) を見る
ハヤカワ文庫SFは黒の背景が格好良い。オタクは黒色が好きなので。まあそれは『バーナード嬢曰く。』で何度も言われてるけど。
終わり。
夢日記(夢オチではない)
夢を見た。
夢の中で私は高校生だった。どうやら何かに追い立てられているようだった。それが何であったかは分からない。しかしその異物感は私を追い詰め,数日前まで滑らかだった日常の歯車にはざらざらした砂が混ざりこみ,私の心を日々やすりがけしていった。穏やかな日常はあっという間に崩壊し,すべてが怖くなり次第に授業に行けなくなっていった。そしてテストも受けられず,落第し,人知れず高校を退学した。高校を去るその日,誰も私を見送ってくれはしなかった。
ある日の教室。そこに私はいない。教師が名簿に目をやる。そこに私の名前はない。私は最初から存在しなかったかのように,記録から抹消されていた。そしてかつて友人だった彼らは私がいなくなっても,何一つ変わらない青春を謳歌していくのだった。
数年後,Facebookで友人が結婚したことを知った。友人は一流大学を出て一流企業に勤めていた。幸せいっぱいの満面の笑顔の投稿。順風満帆な人生。かたや私は無職でひきこもりだった。コメントに「おめでとう」と入力して,結局消した。せっかくのめでたい投稿に私からのコメントなんて不吉だろうな,と考えたからだ。そういうふうに卑屈に考えてしまう自分が情けなくて,涙が溢れて止まらなかった。
さらに数年が経ち,どこだろう,私は座敷牢のようなところにいた。光の差さない,じっとりとした地下。私はじっと黙って下を向いていた。ただただ下を向いていた……。
そんな夢を見た。嫌な汗をかき,久しぶりに悪夢を見たなという実感があった。時計を見ると時刻はまだ朝の4時半。しかしすっかり目が醒めてしまった。それが今日のことだった。
なんでこの夢を覚えているかというと,スマートフォンのメモ帳に残っていたからだ。私はちょこちょこ夢を記録してログを残している。というわけで今日は夢のことを書いていく。DreamというよりはNightmareのほうの。
いままでで一番ショッキングだった夢のことはまだしっかりと憶えている。今年の1月くらいに見た夢だが,あまりにショッキングだったので起きてすぐノートに書き散らかした。そのおかげで鮮明に記憶に残っており,いまでもしばしば蘇ってくる夢だ。
夢の中で私は王女だった。豪奢なドレスを着てたくさんの家来を傅かせる王女様。舞台はふしぎの国のアリスのようなおとぎの国(そういう設定だったのだから笑わないでほしい)。ある日,王様が何者かにさらわれていなくなる。王女様こと私は,父・王様を探す旅に出る。まあ言ってしまえばよくある冒険譚,のはずだった。
しかし割と序盤で王女様は殺される。敵に斧でずたずたにされる。それはそうだろう,取るものも取りあえずお城の外に丸腰で出てきたのだから。RPGの勇者だって最初っからもうちょっとマトモな装備をしている。そこで物語はバッドエンドなのかと思いきや,王女様は生きていた。どうやら王女様は不死だったのだった。物語が進むにつれ,刀で切り裂かれたり棍棒で叩き潰されたり銃で吹き飛ばされたりと次第にヒトの原型を失ってゆくが,王女様は死なない。死ねない。しかし痛みは感じるので,泣くように痛い。喉にこみ上げる血に咽び泣き,全身を刺し貫く痛みに泣き叫びながら王様を探し求める。豪奢なドレスは薄汚い血みどろの布片と化し,見目麗しい御姿は醜い肉塊に変わり果てた。その泣き声は世にもおぞましく,むしろ鳴き声と呼ぶにふさわしい。もう誰もこのバケモノを王女様だとは認識できない。
そして血塗られ呪われた長い旅路の果てに,ようやく王女様は王様を見つけることができた。廃工場のような場所に監禁されていた王様に向かって,一心不乱に突き進む。敵の槍に貫かれようとも,弓矢に射抜かれようとも,血へどを吐きながら手を伸ばす。しかし愛すべき王様との再開は,彼の絶叫と絶望と拒絶によって迎えられた。その絶対的な拒絶からすべてを理解したバケモノは,その時初めてあきらめた。そして誰にも祝福されることなく,深い絶望の中でその呪われた生を終えた。誰も救われず,誰も救わない物語……。
と,目が醒める。
自分で言うのもなんだけど何だこの夢。こわいわ。沙耶の唄要素もあり,HELLSING要素もあり,まあ自分が感じてきた色々なもので構成されているのはわかるが,史上最低の悪夢だった。せめて最後は王様が抱きしめてその胸の中で死んでいく,とかあるだろう……。
精神的に追い詰められている時にはやはり悪夢を見やすいのだと思う。さっきの夢を見たのは今年の1月。仕事も忙しく,以前にブログに書いたことのある上司・S氏ともうまくいかず,転職やら何やらで相当憔悴しきっていた時期だった。あの頃の絶望的な日々があったからこそ,いまの平穏な日々はある。
◯S氏とのことは以前に記事にしたことがある
しかし今日はなんで悪夢を見たのかよくわからない。なぜって,いまは割と人生が楽しいから。これまでの人生で,こんなに情緒が安定している時期はいままでなかった。いままでは,いつだって不安があった。いつだって誰かにおびやかされていた(ように感じていた)。誰かに傷けられないように予防線を張るのに必死になっていた。楽しいことをしていても,ふと冷静になると憂鬱な気持ちが襲ってきた。でもいまは不安がない。確かにジェットコースターのような激しさはないけど,観覧車のように安定した毎日がある。そしてそんな安定した心地よさにふと穴が穿たれて,悪夢がドロドロと浸入してきたような感覚がある。悪夢の内容はどうでもよくて,「人生が楽しい(はずな)のに悪夢を見てしまった」という事実にショックを受けていてるのだ。
だから今回も,楽しいことが小さな穴をキッカケにまた終わってしまうのかなと感じてしまったりしている。「蟻の穴から堤も崩れる」ということわざは言い得て妙なものだ。
うーん,夢オチだったら良かったんだが,文字通りオチもない。
終わり。
リズと青い鳥文庫
劇場版『若おかみは小学生!』を観てきた。
10/19(金)からTOHOシネマズでの上映が増えて(上野・新宿・日本橋・日比谷あたりでも追加された)より観に行きやすくなったので,まだの人は絶対観に行ったほうがいい。さすがに文部科学省選定作品(少年・家庭)だけのことはある名作だった。
感想は色んな人がすでに書いているしネタバレになってもアレなので詳述しないが,とにかく演出や描写が最高だった。よく言われていることであるが実写・アニメを問わず名作に出てくる食事というのは本当に美味しそうで,卵焼きの描写など珠玉であった。私は普通に劇場で「おっこ……おっこぉ……」と主人公に感情移入しすぎてマジ泣きする26歳成人男性になってしまったので,近いうちにまた観ることになると思う。歳を増すごとに死にまつわる作品や死そのものに触れる機会が増えていくからなのだろうか,最近は人が死ぬシーンを見るだけでもう涙腺崩壊してしまう。このままのペースだと10年後くらいには涙腺ガバガバすぎて一日中泣いているかもしれない。文字通り『主に泣いてます』になってしまいかねない。
さて,本題はタイトル通り『青い鳥文庫』についてである。というのも『若おかみは小学生!』の原作は青い鳥文庫であるからであるのだが,ちなみにタイトルの『リズと青い鳥』についても少し書くと,最近やっていた立川シネマシティの極上音響上映を観に行った。紙をめくる音でさえ聞こえる静寂な環境でのふたりの少女のあまりにも繊細な心理描写や触れると壊れてしまいそうなその関係性に胸を締め付けられ,完全にこれ(以下画像参照。美味しんぼで四万十川の鮎を食べて感動している京極さん)になってしまったので,すぐさま台本付きBlue-rayを予約したのは言うまでもない。
◯完全にこれになってしまったやつ
余談だが,私は会社で「映画研究部」という部に所属している。活動内容は月に一回メンバーで会社の補助金を使って映画を観に行き,焼き肉を喰っているというわかりやすいものだ。その活動で5月には『リズと青い鳥』を観に行ったらしい。会社のメンバーで。30代・40代のオッサンたちが。ふたりの少女の壊れてしまいそうな関係性を。観に行ったのだそうだ。私は今の会社に6月に入社したので,後から「5月に『リズと青い鳥』って映画を観に行ったんだけど,女の子同士の淡い恋愛がよくわからなくてみんな困惑してしまった」という感想を聞いて爆笑してしまった。
さて話が無限に横道にそれてしまうが,そろそろ本題に戻る。『青い鳥文庫』,みなさんは読んだことあるだろうか。私と同世代(1992年生まれ)くらいの人は結構読んでいたのではないだろうか。
小学生の頃,私の周りでは『パスワード派(パソコン通信探偵団事件ノートが好き)』なる一派と『夢水清志郎派(名探偵夢水清志郎事件ノートが好き)』なる一派が存在し,「こっちのが面白い!」「こっちのが楽しい!」と常に互いを牽制しあっていた。実際どっちも面白いんだけどね。子どもってどうでもいいことで優劣つけたがるからまあそういうことになる。
私はといえば『名探偵夢水清志郎事件ノートシリーズ』が好きだった。基本はゆるいミステリーなのだが,たまにシリアスな話もある。最後に読んだのは15年以上前だが,『機巧館のかぞえ唄』の最後の方,亜衣が欄干で倒れてからの幻想的なシーンは強烈で,かなり印象に残っている。あと『あやかし修学旅行』のドタバタ感は最高だった。これを読んだ小学生の時分,「修学旅行って楽しそう!絶対に行きたい!!」と思ったものだが,豈図らんや,小学校にも私が進学した中学校にも高校にも修学旅行というものは存在しなかった。中学校と高校は「修学旅行なんぞわざわざ学校が決めることでもないので各自勝手に行きたいところに行け」という感じだった。そういう校風なので中1の頃の遠足ですら現地集合・現地解散だった。いやいいんだけども。私は修学旅行を一生経験することなく,したがってみなさんが修めてきたような学を修める機会もないというわけなのだ。
パスワードは、ひ・み・つ―パソコン通信探偵団事件ノート〈1〉 (講談社 青い鳥文庫)
- 作者: 松原秀行,梶山直美
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1995/06/15
- メディア: 新書
- 購入: 4人 クリック: 192回
- この商品を含むブログ (18件) を見る
そして五人がいなくなる 名探偵夢水清志郎事件ノ-ト (講談社青い鳥文庫)
- 作者: はやみねかおる,村田四郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1994/02/15
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 88回
- この商品を含むブログ (44件) を見る
話をまた戻すと,作者のはやみねかおる氏自体も好きだったので,中学生くらいの頃に同作者の『虹北恭助の冒険』を読んでいた。響子ちゃん可愛い。
しかし普段互いに牽制しあっている『パスワード派』『夢水清志郎派』の両派がその手を携え,互いへの理解を深めるときがやってくる(書きながらテコンダーなんちゃらの一コマを思い出した)。それが『いつも心に好奇心!名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団』である。これは青い鳥文庫20周年を記念して行われた『パスワード』と『夢水清志郎』の競作であり,言うなれば永年に渡るきのこたけのこ戦争の終結である。あとセ・リーグとパ・リーグの交流戦みたいなもんである。まあ野球知らないからよくわからんけど多分そんな感じじゃないか。
いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)
- 作者: はやみねかおる,松原秀行,村田四郎,梶山直美
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2000/09/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- クリック: 34回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
あと『青い鳥文庫』で印象的なのはFシリーズ。森博嗣じゃないよ。よりSF色落強い作品が出ている。枠が青くなくてオレンジ色。ちょっと平凡社ライブラリーっぽいな。これも面白かった。小松左京とか筒井康隆の作品が結構出ているのも特徴だろう。
空中都市008 アオゾラ市のものがたり (講談社青い鳥文庫)
- 作者: 小松左京,和田誠
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/06/15
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 2回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
懐かしさにまかせていっぱい書いてしまった。
終わり。
くだらないの中に
いまさらなのだが,最近Netflixで『水曜どうでしょう』をよく見ている。実はいままでちゃんと見たことはなく,たまにTOKYOMXを見ていると異様に画質の悪い番組の再放送がやってんな……くらいにしか思っていなかったのだ。なんか大泉洋が出てんだっけ?確かダーツ投げて旅するやつだっけ?バスに乗って旅するやつだっけ?違うっけ,みたいなぼんやりした印象しかなかった。
『水曜どうでしょう』は基本的に大泉洋さん,鈴井貴之さん(ミスター),藤村忠寿さん(ヒゲ),嬉野雅道さん(うれしー)のおっさん4人がわちゃわちゃしたり喧嘩しているだけの番組だ。企画はとにかく適当で,西表島で虫を捕るつもりがウナギを釣ることになったり,車に乗って各地の甘い物の早食い対決をしたり,カブに乗って羽田から高知まで向かったり。西表島では「魚が逃げるから」という理由でライトを全て消した真っ暗な画面でタレントが寝っ転がりながら夜釣り(寝釣り,というかマジ寝)をしている(テロップしか見えない)という放送事故スレスレなことをやっていて,ううむこれはすげえなと唸らされた。
ところで私は会社のすぐ近くに住んでいるので昼休みにはよく帰宅している(その際の俊足さったらかなりのものだ)のだが,『水曜どうでしょう』は一話だいたい23分くらいなので,ご飯を食べながら見ていると時間的にちょうどよいのだ。昼休みは大泉洋さんとミスター,ディレクター陣との掛け合いに笑わされ,EDテーマ「1/6の夢旅人」に送り出されながら会社に戻る生活を送っている。道中「ぷっ……」と思い出し笑いしながら下を向いて歩いているのは言うに及ばずといったところだろう。
つい先日なんかは昼休みに『水曜どうでしょう』でひとしきり笑って会社に戻ったら,となりの部署にいるガタイのいいおっさんが水曜どうでしょうTシャツを着ていて,普通にお茶を吹きそうになってしまったし,なにやらひとりで感動してしまった。
で,『水曜どうでしょう』を見ていて,これまたいまさらながら気付いたことがある。
私はとにかくおしゃべりが好きだ。とりわけくっだらね~マジで何の意味もね~おしゃべりが死ぬほど好きだ。
水曜どうでしょうの掛け合いが好きだ。サンドウィッチマンのコントが好きだ。アンジャッシュのコントが好きだ。オードリーや星野源さんのオールナイトニッポンが好きだ。匿名ラジオ*1のトークが好きだ。月ノ美兎*2のトークが好きだ。
学生の頃を思い返しても,一番楽しかったのは誰かとくだらないことを話している時だった。内容は何だっていい。くだらなければくだらないほどいい。どうでもよければどうでもよいほどいい。丁々発止の掛け合いができると,とにかく楽しかったものだ。
色々なことを思い返す。中学高校はテニス部や生徒会に入っていたが,それ以上にグダグダと教室でくだらない話をしていたことばかり思い出す。ただ,内容はほとんど思い返せない。どうせアニメとかゲームとか漫画とかの益体もない話に花を咲かせていただけなのだ。でも気がつくとすっかり時間が経っていて,帰ろうか,となる。テニス部は週何回来てもいいみたいな緩さがあったので入部したみたいなところもあるし,それよりもゲームセンターのクイズマジックアカデミーが忙しかったので,不真面目な部員だった。生徒会では会計を務めていたが,とにかく生徒会室に漫画をめちゃくちゃ持ち込んで読んでいた。……そういえばあれは処分されてしまったのだろうか。いまでは知るすべもない。
テスト期間は授業が午前で終わるから,サイゼリヤやガストに行って勉強会という名のおしゃべりを延々としていたり,テスト後の打ち上げは中華料理店でずっとおしゃべりしていたりと,いつもよりも多くおしゃべりしていた。いつもよりも多く笑った。その時間は全く何の意味もないが,とにかく楽しかったし,とても大事な時間だった。
大学に入ってもほとんどそんな感じだった。趣味の合うひとたちとのくっだらね~おしゃべり。部室に居座り,笑いすぎて過呼吸になるほどにいっぱい笑った。部活やボランティア活動に熱心に打ち込んだりしてるひとを尻目に,私は狭い部室でくだらない話をし続けて笑っていた。
確かに私は何かに熱心に打ち込んだりはできなかったけど,別にそれを後悔なんかしていないし,やりたくないことはやらなくていいと思う。色々活動を広げようと思った時期もあったが,結局自分には向いていないことも分かってしまった。別に打ち込めるものがなくたって,日常のくだらなさに面白さを見いだせれば,それって最高なんじゃない?
くだらね~ことが大好きという価値観は,いまも基本的に変わっていないんだろうなと思う。社会人になった私は,会社で隣の席の人(同い年・男)にめちゃくちゃちょっかいを出している。なんていうか,私がいる職場は基本的に一人の作業が多くて静かなので,そのうち飽きておしゃべりがしたくなってくるのだ。彼には好きな漫画を押し付け貸したり,わかりにくいうえにどうでもいい皮肉を言ったり,ハマっているゲームのキャラの魅力を延々と語ったりしている。彼は内心ウゼェな……と思っているのかもしれないが,いちいち彼が反応してくれるので話しかけてしまうのだ。ていうか自分で言うのもアレだが最後のは普通にウザいな。ちなみに最近は『素晴らしき日々』の橘希実香さんのよさを延々と話していた。
◯橘希実香さん
今日はなぜだか忘れてしまったが拷問や処刑の話で盛り上がってしまった。冷静に考えて,隣の部署から「ファラリスの雄牛」とか「アイアンメイデン」とか聞こえてきたら普通に嫌だろうな。隣の部署の人たちすみません。
……あー,特にオチはない。タイトルは星野源さんの『くだらないの中に』から。まさにこのブログ記事のタイトルにピッタリだ。くだらないの中に大切なことがある。ところで意外と思われるだろうが,私はかなり星野源さんが好きだったりする。
まあ『水曜どうでしょう』もオチはないし,いいでしょ。 人生適当に生きましょう。
人よ,幸福に生きよ!
終わり。
時には昔の話を
少し前に大学の先輩たちと飲んだ時に話したことが,いまだに胸の中でリフレインしている。
「大学生には戻りたくないね。」「完全にそれ。」
世間的には「学生に戻りたい!」「あの頃はよかったなー!」という話はよく聞く。でも私は戻りたくなんかない。これっぽっちも。なんでだろう。
こんなこと言うと「イジメられてたの?」と心配されるかもしれないが,そんなことはなかった。そして,学生の頃がつまらなかったなんてことも全く無い。
確かに学生時代を通じて友人は少なかったが,友人が多い人間というものを根本的に信用していないので,その点では私は私を信用している。自己肯定は大事。
交友関係も含めたありとあらゆる関係において,薄っぺらい関係なら最初からいらんわ。というのが基本的なスタンスだった。最初っからそんなこと言わずに相手のことをもっと知れば仲良くなれたかもしれないじゃん!というのは確かに一つの真理だが,今回はご縁がなかったということで,また来世で。じゃーね。なんて考えている。
じゃあなんで学生の頃に戻りたくないのか。答えは明白だ。
あの頃常に頭にあった,「何かしなきゃ」「何者かにならなきゃ」と焦るばかりで,でも何もできずに腐っていく感じが,とても怖くて気持ち悪かったからだ。
頭に銃口を突きつけられているような恐怖感。いますぐ動き出さなきゃ死んじゃうんじゃないかという焦燥感。何かをしなければ,というマイナス方向の衝動にただ突き動かされていた。
その衝動は日に日に膨大していき,自由な時間が多い大学生の頃に極大値となった。そしてそれに突き動かされるままに,「これは私を変えてくれるかもしれない。」と思って色んなものに手を出した。とりあえず旅行して全国47都道府県を回ってみた。テニサーに入ってみた。色んな飲み会に参加してみた。意識高い講義に参加してみた。ボランティアもやってみた。NPOもやってみた。神信じてないから宗教とかはやってないけど,色んなことやってみた。
色んなことやってみた結果,どうだ?私は変わったか?否,何も変わってなどいない。何もできなかったし,何者にもなれなかった。結局のところどうしたって,魂の在り方は変えられやしないんだ。いくら経験を積んだからって,いくらインドに行ったからって人間の本質,魂の在り方は変えられない。ジタバタしてみたって仕方ない。私は友達100人出来ないし,仮に出来たとしても嬉しくもなんともないだろう。
じゃあ,こんな私に誰がした(昔のドラマではない)?
それはまぎれもなく私だ(コブラではない)。全責任は私にある。
いっそのこと,神様とやらをを信じられればよかったのだ。全責任を神になすりつけられればよかった。池袋のブックオフに宗教勧誘がよく出没することは有名だが,ご多分に漏れず私も勧誘されたことがある。人生に悩んでいるように見えたのだろうか。そしてなんか面白くなってしまい,勧誘のオッサンに連れられて一回喫茶店まで行ってみた。でも結局,終始「でも神いなくないですか?」と繰り返す私に嫌気が差したのか,オッサンは勧誘をあきらめた。コーヒー一杯で2時間くらい「神はいるのか」などと意味不明な問答を繰り返す経験は,後にも先にもないだろう。まあ加藤登紀子はコーヒー一杯で1日過ごしていたようだが……
愛なき時代に生まれたわけじゃないが,色々なものを信じることができずに生きるということは,それはそれで辛いものだ。
ただ一つ,確実に言えることは,ミステリーでの私の立ち位置は奇跡を起こす的なオッサンに「ふん!そんなもんはまやかしじゃわい!」と捨て台詞を残して後日遺体で発見されるやつということだ。
そう,私は私の責任のもと,何者にもなれなかった。そしてだからこそ,いまとなっては「何者かにならなきゃ」という余計な期待を抱くこともない。焦燥感もない。だからこそ,いまが心地よい。
それでいい。それでいいじゃないか。
タイトルは文中に書いた加藤登紀子の名曲・『時には昔の話を』から。
終わり。
夭逝はあきらめた
ようせい【夭逝】
(名)スル
年若くして死ぬこと。若死に。夭折。「将来を期待されながらも-した」
このブログでも折に触れて述べているように,私は今年で26歳になった。いわゆるアラサーである。そんな私も中学生くらいの頃には漠然と「25歳くらいまで生きられればそれでいいな」と考えていたし,「夭逝はカッコいい。長生きはダサい」とか「Don't trust over 30」とかなんとか言っていた。その理屈で言えば私はそろそろ死ななければならないわけだが,いまのところ死ぬ予定は全くない。少なくとも自死をする予定は。
「長生きはダサい」という感情を,「中二病」と言って切捨ててしまうのは簡単だ。口癖のように「死にて~」と言う若者だっていっぱいいるだろう。別にそれはそれで良いのだと思う。実際のところ本当に死ぬのはごくごく一部だし,大多数の死ななかったひとを「言ったからにはちゃんと死ねよ!」などと責めるべきではない。論理の一貫性と現実の正しさは必ずしも一致しないし,正論の刀は正論であるがゆえに常にひとを傷つける。
26歳になったもはや私は,夭逝をカッコいいとも思わないし,長生きをダサいとも思わない。それを私が年老いたからだと評価すべきなのかどうかはわからないが,結果として私は夭逝をあきらめ,「いま」を生きることを選んだ。過去でも未来でもなく,地に足の着いた「いま」を。
「いま」の地点から26年間を振り返ってみれば,とにかく私は逆張りに生きてきたようだ。本当は素直に生きたかったのだが,そのように生きてきてしまった。
小さい頃から子どもらしくない子どもだった。多数決でみんなが「A!」と元気よく手を挙げれば,特に理由もなく「B」と答えるような子どもだった。そしてBと答えてからそれを選んだ理由を考えるような子どもだったのだ。「みんなAって言うからB!」と答えるのではなく,理論武装をするあたりが嫌らしい。
逆張りもさることながら,すべての行為に理由を求めたがる子どもだった(これは今でもあまり変わっていない)。だからいまでもひとに「これをやって」と言われても「なんで」の部分がわからないと出来ない人間だ。同義語としては「めんどくさいやつ」というものが挙げられる。
小学生の頃,制服があった。「なんで制服を着なくちゃいけないの?」という疑問に大人は「ライカくんが入った学校に制服があるからだよ」としか答えてくれず,その不満はすぐさま「制服のない中学校に行きたい!」に繋がり,制服どころか校則すらない中高一貫男子校に入学した。私服を取る代わりに色んなものを失ってしまった気がするが,楽しかったし,それはそれで良いのだと思う。
大学に入っても「なんで興味のない講義に出なくちゃいけないの?」とか「なんでサークルのひとと一緒にごはん食べなきゃいけないの?」とか色々なことを考えていたら,キャンパスライフにおけるマジョリティーの輪からはじき出されるのはあっという間だった。そして「おまえらマジョリティーがそうするんだったら俺はよ……」という逆張り意識があったのは言うまでもない。だからどう過ごしたら楽しいかを自分で考えて,同じくマジョリティーから少し外れたひとたちと楽しく過ごした。それが悪いことだとは全く思っていないし,やっぱり楽しかった。
会社に入ると「なんで」が通用しない領域が増えてくる。学生の頃は意識しなかった,年長者の圧力に対して「なんで」を押し通そうとする勇気がいる。そしてそれと同時に,逆張りの意識がムクムクと頭をもたげてくるのだ。
前職で管理系の部門にいた時,社会人のシャツインしたワイシャツ+真っ黒いズボンの葬式みたいな組み合わせが大嫌いだった私は,せめてもの対抗意識として常にカーディガンを身に纏っていた。クールビズだろうが外気が35℃だろうがなんだろうが,カーディガンを羽織っていたのだ。先輩からは正気の沙汰ではないと言われたが,私は頑としてそれを着続けた。逆張りもそこまで来ると立派な気狂い(きぐるい)だ。
そうやって振り返ってみると,逆張り&理由付けが私の人生の指針なのだ,と思う。
元々私はすぐにひとからの言葉に病んでしまうような弱くてネガティブな人間だ。そもそも逆張りというのは多数派に与しない,ネガティブな行為を指すわけだし。生まれつきネガティブな人間だ。
そしてインターネットにはネガティブな意見が溢れている。「どうせ私なんか」「気持ち悪い」「不安だ」「意味ない」「死にたい」「つまらない」「帰りたい」「虚無だ」「バカだ」「鬱だ」とか。それらはポジティブな意見よりも圧倒的に多い。多数決を取ったらネガティブの方が多くの手が挙がるのだろう。
だからこそ,いまでは私は「ネガティブはダサい」と考えている。「みんなネガティブなんだったら,逆張りしてポジティブになるのがカッコいい」と。そういう逆張りのポジティブだってアリじゃないか。「いま」をポジティブに生きる。それ,とってもいいことなんじゃないの。
夭逝はあきらめた。逆張りでも何でもいいから,「いま」をポジティブに生ききってやろうと思った。
ところでそもそも「夭逝」というのはしばしば天才に対して使われる言葉であるところからして,あきらめるも何も凡才のアンタは……というのが実際のところなのだが,それはそれとして。
タイトルは南海キャンディーズ山ちゃん(山里亮太さん)の『天才はあきらめた』より。
終わり~。
気分はもう最低
人は結局,自分の枠の中で生まれて死んでいくのだな,と思う。
いきなり主語がクソでかくて恐縮至極ではあるが(文字通り一文字目の主語がクソでかい),その「枠」が身体という牢獄であれ,思想という縛りであれ,くだらない人生観であれ,趣味嗜好であれなんであれ,人は自分だけの世界で死んでいく。自分だけの世界で生まれて,自分だけの大切な輝くものを抱えながら,自分だけで死んでいく。誰かと一緒にいたって,そういう意味で,人は死ぬまでひとりだ。
自分の隣の芝生が青いことは分かっていても,「みんな良ければ最高だね!」ではなく,「隣の青い芝生より自分の家の赤い芝生の方が面白い!」とか「青い芝生とかつまんないし攻撃してやる!」と考えたりする。これは動物の縄張り意識みたいなものなのだろうか。
ヘッセの『デミアン』の有名な台詞で「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは,一つの世界を破壊しなければならない」というものがある。しかし実際のところ,卵の中で腐って死んでいく鳥のなんと多いことか。卵,すなわち自分の枠から出ていくことは本当に難しいことなのだと思う。
これは自身にとっての戒めであるのだが,人はどうあがいたって自分の枠の中で死んでいくのに,そこに優劣をつけようとしても仕方ないだろうと思う。「私の方が優れている!」と言って,丸い枠と四角い枠を比べて優劣を競っても,そもそも形が違うものを競う意味がない。
さて,ここからめちゃくちゃ気持ち悪いことを言う。
私はオタクではあるが,どちらかと言えばサブカル寄りの人間だ。キャラクターの可愛さよりも物語の面白さや演出の良さで作品を選びたい。世の中に見たい作品は無数にあるので,キャラクターの可愛さだけの作品に時間を消費しているほどこちらは暇ではない,という気持ちが奥底にある。時間という有限なリソースをどのように配分するのが最適解なのか,ということばかり考えているのだ。
だから「とにかく可愛い女の子が出てくる漫画が好き!」とか「なにも考えずにボーッと見られるアニメが好き!」という人と話しても微妙に方向性が異なることが多い。そしてそういう時,私は心の中で「わかってねーなこいつ」とか「なんも考えずに作品を受容するなよ」とか思ってしまう。これは最悪だ。醜い心だ。悪しき心だ。
相手は自分の枠の中で純粋に楽しんでいる。別にいいじゃないかそれで。そう思おうとしても,「わかってねーなこいつ」の心が出てきてしまう。じゃあおまえは何を分かっていると言うのか。他人を見下して優越感に浸ろうとするな。
今日『イージー★ライダー』という映画を観た。どうでもいいけどこの「★」なんなんだ……。『らき☆すた』と「つのだ☆ひろ」以外でこれを使うことがあるのか……。
イージー★ライダー コレクターズ・エディション [AmazonDVDコレクション]
- 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
- 発売日: 2014/12/19
- メディア: DVD
- この商品を含むブログを見る
広大なアメリカで,主人公たちは自由を求めてひたすらにバイクを走らせる。その中で ,以下のような印象的なシーンがあった。
「自由の国,アメリカ」。誰もが一度は聞いたことのあるフレーズだろう。主人公たちも自由を求めて旅をしているが,その長髪や格好はアメリカの「伝統的な」価値観からの強い反発を受ける。「自由の国」であるアメリカで,どうして彼らが自由を求めちゃいけないのか?
曰く,「人々からは主人公たちが自由の象徴に見えるから」。彼らは何物にも縛られず,自分で生きているから。そして自由の象徴たる彼らを見ることで,そうなれない,しがらみだらけの自分たちを認識せざるを得なくなることが怖いから。
はっとさせられた。私は,純粋にキャラクターを楽しんでいるオタクのことが怖かったんじゃないか?シナリオがどうとか演出がどうとかわけわかんないこと言って純粋に楽しめていない自分を認識せざるを得なくなることが怖くて,無理に優越感に浸ろうとしていたのではないか?そこには優劣なんか存在しないのに。
人は死ぬまでひとりだ。どうせ作り上げた「枠」の中で死んでいく。そして他人に迷惑をかけない限りにおいて,その枠を批判する権利は他人にはない。どっちの枠が優れているとか劣っているという話自体が筋違いだ。あまりにみっともなく,俗物的だ。最低だ。
書いてて「最低だ、俺って。」という気持ちになってきたので,このへんでやめておく。
タイトルは矢作俊彦・大友克洋『気分はもう戦争』から。最低なのでこのようなタイトルになった。
終わり。
谷山浩子を聴け
いきなりだが,みなさんは谷山浩子(敬称略)を聴く必要がある(食い気味)。
少し前にTwitterでは,「全オタクはこのミュージシャンを履修しろ!」的なやつをよく見かけた。ツイート製作者のとても熱い想いが,メモ帳スクショ4枚で怒涛のように伝わってくる。そこに挙げられていたミュージシャンは,ポルノグラフィティ,天野月子,奥華子などなど。ふむふむ。確かに私もすべて履修してきた。オタクが好む音楽性がだいたい同じなのはなかなか面白い。
ところで,声を大にして言いたい,全オタクは谷山浩子を聴けと。全オタクは谷山浩子を聴け!!!
つい先日,谷山浩子のコンサート「猫森集会2018」に参加してきた。谷山浩子は今年で62歳になる大ベテランで,昨年はデビュー45年記念のアルバムも出ている。必然的にファンの年齢層も高く,猫森集会でも40~50代の人が多かったように思う。
彼女の代表曲はNHKみんなのうたでも放送された「恋するニワトリ」「おはようクレヨン」「しっぽのきもち」などだろう。彼女の可愛らしい歌声がメルヘンな世界観をうまく作り上げている。このあたりの曲は谷山浩子の白い曲などと呼ばれたりしている。あとゲド戦記で印象的に使用された「テルーの唄」の作曲,変わりどころではヤマハ発動機社歌も歌っている。
◯恋するニワトリ
鉄製の風見鶏に恋をしてしまったニワトリの歌。叶わぬ恋のはずが「ひとりでタマゴを産んだ」ニワトリにいろんな解釈を見出すタイプのオタクが散見される。
大変可愛らしい歌。「しっぽしっぽしっぽよ~あなたのしっぽよ~」とリズムがよく,勝手に身体が踊りだしてしまうような陽気な歌だ。
◯ヤマハ発動機社歌
社歌が谷山浩子だったらテンション上がる。
さて,さきほど谷山浩子の白い曲という話をした。白い曲があるということは当然,黒い曲もあるということだ。ということで,以下では谷山浩子の嫉妬と情念と不条理と怨嗟と電波が渦巻いた黒い曲を紹介していく。
◯王国(『歪んだ王国』収録)
谷山浩子の黒い曲の代表曲。
重々しいイントロからの「歪んだ王国にぼくたちは住んでる」。他に誰もいない閉じたふたりだけの王国は,緩やかに終わっていく。他人を拒み,「翼ある鳥は翼をもぎ取れ 世界へと続く通路を閉ざせ全て」と言い放つふたり。永遠を目指して,外へと出ること/変化していくこと/大人になっていくことを拒むふたり。その先には一体何があるのだろうか。永遠なんてもの,あるわけないのに(ウテナじゃん)。
曲の終わり,「きみを永遠にぼくは愛し続ける きみだけをぼくは愛し続ける」のリフレインには狂気すら感じられる。きっとその王国は救われない。ふたりは幸せにはなれない。永遠なんてどこにもない。でもそんなことは関係ない。外野が何を言おうが関係ない。その声はふたりの耳には届かない。
私たちは誰も,ふたりだけの「王国」への通行許可証を持っていないのだから。
◯鳥籠姫(『しまうま』収録)
しばしば女性版「王国」とも称される「鳥籠姫」。確かに「王国」はふたりを閉じ込めた王国を作った男の子の歌に,そして「鳥籠姫」は閉じ込められた女の子の歌に思える。ショックで自らを鳥籠のなかに閉じ込めてしまった,女の子の歌に。
「長い長い孤独の時 帰らぬ人を待ち続けて」
「海の見える丘の家に ほこりだけが静かに積もる」
「わたしはわたしをここに閉じ込めた」
大切な人を喪って,自らを鳥籠のなかに閉じ込めてしまった女の子。時は残酷に刻まれ続ける。でもふたりの時間は,もう止まったまま決して動くことはない。鳥籠姫は,鳥籠のなかに永遠にいる。幸せだった時間に思いを馳せつつ。
「わたしを作ったあなたの腕に 帰るその日をひとり待ちながら」。
◯夜のブランコ(『夜のブランコ』収録)
急にリアルな世界観になるのもまた谷山浩子の魅力だ。これは溢れ出る真っ黒く燃え上がる情念の歌。「やさしい人たちを裏切り嘘をついて 逃げ出して走ってきたの」「指輪は外してきて まぶしくて胸が痛い」,これはどう聴いたって不倫の歌。不倫は文化,と言っていた芸能人がいたが,後ろ暗さを抱えつつも情欲に突き進むしか無いという,ひとの情念に暗い火を着ける最良の着火剤であるのは間違いないだろう。
「愛なんて言葉忘れて 逢いに来て夜のブランコで待ってる」と危険な匂いの漂う言葉遊びも魅力的だ。もう帰れなくたっていい。あなたに壊されてもいい。こなごなにされてもいい。死んだっていい。理屈なんか要らない。これはそういう歌だ。
ただあなたのことが好きだから。
◯冷たい水の中をきみと歩いていく(『冷たい水の中をきみと歩いていく』収録)
このブログのタイトルにもなっている曲。あまりに美しく,儚く,滅びを歌い上げる。イントロの美しく透き通った旋律からの,透明感のある歌声。五感すべてが研ぎ澄まされるかのような感覚。
「ぼく」は何も望まない。水の中から見上げる光に,何を見出すのか。
「実らずに終わった恋」が「あんまりきれいなので ぼくの命も奪っていく」。「あんまり静かに輝くので ぼくの身体は壊れていく」。
美しすぎる「終わった恋」を胸にいだいたまま,「ぼく」は冷たい水の中に沈んで消えていく。
◯洗濯かご(『翼』収録)
タイトルがあまりに生活感がありすぎてどんな曲かわからないと思うが,不倫の曲だ。しかもおそらくは,不倫をされる妻の歌。
重々しいイントロ。呪詛のように,怨嗟のように綴られる言葉。タイトルからは想像もつかないおどろおどろしさ。洗濯かごって,つまらないものだ。そこには,つまらない日常が詰まっているとも言える。このタイトルを付けた谷山浩子は本当に天才だと思う。
「夜ごとベッドを抜け出して 息を殺して森の奥 あなたは誰を見つけたの?」。あなたはベッドを抜け出して,誰に会いに行っていたの?
「逃げるふたり靴を投げる 投げた靴がイバラになる」という歌詞は,まさに妻の心理的な視点だろう。不倫をしているふたりの逃避行。それは必要なはずの靴を投げるほど必死で,そしてそれはイバラとなってわたしを傷つける。なぜあなたはわたしを捨てたの?己を責め苛む。
曲の最後,「安いアパートのベランダで 洗濯かごを避けながら あなたは誰を抱きしめた」,はおそろしくて震えてしまう。もうベッドを抜け出すのではなく,相手を「わたしたちの愛の巣」である家に招いていて,わたしはそれに気付いている。どこまでもおどろおどろしく,歪んだ情念を感じずにはいられない。
わたしがいる(はずの)場所で,あなたは,わたし以外の誰を抱きしめたの?
『雪の女王』をモチーフにしたアルバム。雪のように真っ白い情景が思い浮かぶイントロ。雪の中に閉じ込められてしまったような,カイという少年の永遠。
「ぼく」はただ見つめている。でも,一体何を?
「そしてぼくはひとりになって 忘れたことさえ忘れてしまった」
「ぼくのすみかは氷の下 誰かぼくを ぼくを見つけてくれ」
アルバム中に「カイの迷宮(文字のない図書館)」という短い曲がある。同じメロディだが,こちらの曲ではさらに繊細な印象を受ける。「自分のことを書いてみた 分厚い本すべてのページに 確かに書いたはずなのに ただ一枚白い紙だけが」
喪われてしまった記憶。自分が自分であることを確かめるために,「ぼく」は書く。そして書いたそばからすべては消えて行く。とても恐ろしいし気持ち悪い。
しかし。
「忘れたことさえ忘れてしま」えば,もう何も恐れることはない。
◯不眠の力(『ボクハ・キミガ・スキ』収録)
ひとを好きになってしまい,夜眠れなくなってしまい,世界を滅ぼしてしまう女の子の歌。眠れないって恐ろしいね(棒読み)。
彼に対する思いが強すぎる女の子。その思いゆえに,世界を砂漠に変えて,海を枯らして,生き物を殺し尽くしてしまった女の子。彼との「一度だけの口づけの夢を叶える」ために,すべてを滅ぼしてしまった女の子。
そして破滅の願いは叶い,彼女は彼に口づけをすることができた。でも,もう思いは決して届かない。なぜなら,彼も彼女も死んでしまっているから。ただ,彼の「瞳の黒いガラスは静かにひび割れる」だけ。すべてが滅び,廃墟になった世界は,どんな思いをも届けてはくれない。
たとえ宇宙を滅ぼす力を手にしても,あなたには決して届かない。
◯ガラスの巨人(『水玉時間』収録)
ガラスの巨人ってなんだろう。
巨人というのは脅威だ。進撃のアレではないが,その大きさは存在するだけで人類への脅威となる。一方で,その巨人はガラスで出来ている。繊細で脆く,割れてしまいやすいガラスで。それは自己矛盾とも言える存在で,存在そのものが破綻しているのだ。
曲の最後,
「悲しみが攻めてくるよ もっと大きくならなくちゃ」
「悲しみが攻めてくるよ もっとひろがれぼくのからだ」のリフレインはグッとくる。
なぜなら,「ガラスの巨人」は大きくなるほどにどんどん割れやすくなっていくのだから。でも大きくならなくちゃ,ひろがらなければその悲しみを防ぐことができない。とてつもなく大きく,でもとてつもなく脆いガラスの巨人。
はじめから矛盾した存在。ガラスの巨人。
◯まもるくん(『フィンランドはどこですか?』収録)
谷山浩子最強の電波曲。
ラムネの瓶にビー玉を落としたようなイントロ(通称:まもる音)で知られる。
まもるくんとは一体だれなのか。そもそもひとなのか。完全に投げっぱなしである。
「新宿の地下道の壁から出て」きたり,「警官の制服の肩から出て」きたり,「建売住宅の屋根から出て」くるまもるくん。「道行く人は誰も彼も見ないふり」をするまもるくん。……ナニモノ?
あえてコメントするのも野暮な感じがするが,まもるくんとは「監視カメラ(=監視社会の比喩)である」とか「社会を息苦しくするマナーである」みたいな解釈をよく見かける。
完全に謎である。
さてさて,記事を書くのに思った以上に時間がかかってしまった。
結論は最初に言ったとおり。
全オタクは谷山浩子を聴け!
終わり。
月曜日の実験室
今日,オードリー若林のエッセー『ナナメの夕暮れ』を読んだ。 特別何かが尖っていて心に刺さる!というわけではないが,私のようなタイプの人間は共感してしまうことが多い。
エッセーの内容としては,冷笑混じりで呼ばれる「自分探し」を40歳近くまで続け(ざるを得なかっ)た著者の,苦悩の解消について。そしてタイトルにもなっている「ナナメからモノを見てしまう」(=斜に構えてしまう)ネガティブな自分をただ変えたいと願うのではなく,他人をまずは肯定して,自分を肯定してみる……という「姿勢」についてだ。
言ってしまえばそんなのは,よく啓発本には書いてある内容だ。そしてデキる人からすれば言われるまでもない当たり前の話だ。だから啓発本はいつの時代もなくならない。それは一種の新興宗教だからだ。人の弱さにつけこんで,「こうすればいいんですよ」と解決策を提示しているように見えて,その実それを達成することがどれだけ難しいことか。その達成は到底困難なのに,「自分を変えたい」と救いを求めて教祖様が執筆した経典に群がる信者たち。これを宗教と言わず何と言おう。
ただ従来の宗教と違うのは,教祖様はとっかえひっかえされ日々消費されるし,経典は日々ダイヤモンド社やら日経BP社やらから発行されているということだ。極めて資本主義的・現代的・システマティックな宗教だ。「幸せになりたい/ポジティブになりたい」という教義のみは不変のようだが。
しかし,そんなありふれた話であったとしても,そんなことがデキない人というのが世の中にはいくらでも存在する。考えれば考えるほど思考の闇に落ち込んでいってしまい身体を縛り付けてしまうというタイプは,少なくとも私の周りにはいっぱいいる。オードリー若林もまさにそうだったようだ。教祖様の「啓発してやるよ!」という目線でなく,実体験として,そして切実な思いとして伝わってくる誠実さが好ましい。
ついこの間,同様にオードリー若林の『社会人大学人見知り学部卒業見込』も読んでいた。
最近radikoでオードリーのオールナイトニッポンをよく聴いている。休日にごはんを作りながら流している。下ネタやら馬鹿な話やらくっだらねえ話ばっかりだが私はこういうのが大好きなのだ。 若林が意味わからない海の家で7万ぼったくられた話など,包丁持ったまま腹抱えて笑ってしまった。春日がめちゃくちゃエロくて若林がそれをイジるのも見ててホッコリする。
ていうか,そう。
最近のライカさん,オードリー(特に若林)にハマっている。
いやまあそれだけなんだけど。
前職の後輩でオードリーが好きというやつがいた。その時にオードリーがオールナイトニッポンをやっているという話を聞き,「なんだよ,おまえサブカルオシャレクソ野郎じゃねぇかよ」と嫌悪感をあらわにしてしまった。オードリーのことをよく知らなかったのだが,オールナイトニッポン=サブカルだと思いこんでいたため(偏見),そしてその後輩がイケメンだったため(最悪),なんとなく嫌悪の対象となってしまっていた。心のせまさヤバくないか……?
ところでライカさんはサブカル野郎をいつも否定しているのだが,そろそろ自分もただのサブカル野郎であることを「肯定」しなくちゃいけない。
ところで,ライカさんはバーチャルYouTuberの月ノ美兎(委員長)に割と前からハマっていてよく見ている。彼女は見た目もさることながら,トークが軽妙でとても面白いのだ。そんな彼女がやっているラジオ形式の生放送「月ノ美兎の放課後ラジオ:みとらじ」に誰かが「オードリーのオールナイトニッポンっぽい」とコメントしていたのだ。
そこで,いままでなんとなく「うわーサブカル野郎!!サブイボが出るから近寄らないで~!!!」とか言って遠ざけていた「オードリーのオールナイトニッポン」を聴いてみたのだ。
面白かった。素直に面白かった。んでハマった。
……そうなのだ。昔っからこうなのだ。ディズニーランドが楽しい!と素直にはしゃげない人間だった。行く前にサークルの友人らにさんざん「ディズニーの”シマ”とったるわ!(当時ヤクザ映画にハマっていた)」「わしら鉄砲玉ですけんのお!」とバカ丸出しでイキリまくったは良いものの,結局エレクトリカルパレードに一番目を輝かせていたのはライカさんだったと後から笑われた。タワー・オブ・テラーの冒頭のシリキ・ウトゥンドゥでめちゃくちゃはしゃいでいたのはライカさんだった。そういう人間なのだ。
なんでも偏見を持っちゃダメという気づき。口に出して言うのは簡単だが,本当にそれは大切で,偏見は目のフィルターを曇らせて人生の可能性をせばめてしまう。文字通り色眼鏡で世の中を見ると,どうしたって斜に構えて,ナナメに見てしまう。
でもそんなのってツマンナイ。一度きりの人生なんだから,ツマンナイ偏見なんて捨てて楽しく生きたほうがお得じゃん。若林は40歳近くでそれに気付いたと言っている。ライカさんは若林よりも10年早くそれに気付けたんだ。そう胸を張って,まずは動き出そう。
前半と後半でテーマがだいぶ変わっちゃったけど,まあいいや。
タイトルは今日サイン会&トークイベントに参加してきた西島大介先生の『土曜日の実験室』から。めちゃくちゃ面白いからサブカル好きは読むべき。ライカさんも勿論サブカル好きなので読んだ。自分を肯定していくスタイル。
土曜日の実験室―詩と批評とあと何か (Infas books)
- 作者: 西島大介
- 出版社/メーカー: INFASパブリケーションズ
- 発売日: 2005/11
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 34回
- この商品を含むブログ (75件) を見る
おわり~