冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

無題

空からなにかが落ちてきた。 みんなが空を見上げた。

僕の心とは対照的に、 空には雲ひとつなかった。 空に雲があれば手を伸ばしてつかむことができたのかもしれないが、 空には雲ひとつなかったから。 空はある種の残酷さを湛えていた。 空はどこまでも青く、美しく。 空は対照的な僕を惨めにさせた。

ぐんぐんと速度を上げて、 空から遠ざかっていく。 ぐんぐんと速度を上げて、 地面に近づいていく。

10、9、8、 最期のカウントダウンが始まる。

3秒前、嫌なことばかり思い出した。 嫌な上司、職場でのいじめ、リストラ。 こんな嫌なことばかりの世界とおさらばしてやる、 そう啖呵を切ったのだ。

2秒前、悲しいことばかり思い出した。 家族の死、ペットの死、恋人との別れ。 こんなつらいことばかりの世界はもういやだ、 そう決意を新たにしたのだ。

1秒前、それでも生きていきたいと思った。思ってしまった。なぜ、いまさら。 だって、そんな僕を愛してくれたひとがいたから。 生きたい。生きたかった。なぜ、いまさら。 だって、それでも人生は悪くはなかったから。 でも、もう間に合わない。何もかもが間に合わない。 ありがとう。ごめんなさい。 僕は、稀代の大馬鹿者です。

* * *

空からなにかが落ちてきた。 みんなが集まってきた。スマートフォンを片手に。なにか面白いものを求めて。 それは瞬く間にインターネット上に拡散され、ひととき話題を呼んだ。 しかるのちにそれは、電子の海に揺蕩う情報のひとつと化した。 それはどこまでも平凡な男の、どこまでも平凡な最期だった。