冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

思い返すことなど(1)

思い返すことなど。

何の脈絡もなく思い返すことを書いていこうと思う。

 

先日、友人宅でバーベキューをするということで高校の友人達と会った。

中高一貫校の男子校なので6年間同じ校舎にいたのだが、わたしは非社交的な人間なので、在学中に話さなかった人のほうが多いくらいだ。

現にバーベキューに誘ってくれた友人とも、在学中はほとんど話したことがない。

ちなみにその友人は自宅でバーベキューセットを持っており、夏休みはカナダで釣りを楽しみ、親の外車を乗り回しているようなハイパー雲の上天上人だ。

その日も彼の外車(しかもオープンカー)に友人たちと一緒に乗せてもらい、ドライブに連れて行ってもらった。

その後はバーベキュー、となんだか違う世界のような体験をした。

そこで、急に思い出したのだ。中高生の頃のことを。

 

以下、4回にわけて書いていこうと思う。

1回目…日常編

2回目…学園祭編

3回目…旅行編

4回目…高校卒業後編

 

日常編から書いていく。

中高生の頃の日常だ。

 

わたし自身は、基本的に自分からひとに話しかけないので、交友関係が広がらない。

そんな生活を当たり前だと思っていた節もある。

そのなかで、ひとりだけ例外的な人物がいた。

それがMという人物だ。

ちなみにそのMとは中3の頃からほぼ毎年旅行にいくことになり、同じ大学に進学することになり(向こうは浪人しているが)、同じ業界に就職することになった。

 

初めてクラスが一緒になったのは中2の頃。

なんだかうるさいやつがいるなあ、くらいの印象だった。

わたしは中1の頃は優等生タイプ、というか、安心できる数人のおとなしめグループに属しており、家に遊びに行ってゲームや遊戯王カードで遊んだりそこそこ居心地良く過ごしていた。

そこに嵐のごとく現れたのがMである。

わたしが所属していた「中2C」は当時の不真面目なメンバーの寄せ集めみたいなクラスで、教師もやる気がなかった。退学者も多かった。「中2C」というクラスは無法地帯だったのである。Mとはそこで初めて出会った。

Mはなぜかわたしによくちょっかいを出してきた。

いじる、という感じでいきなり授業中に私の名前を大声で叫んだりして、うるさいやつがいるなあという思いはどんどん強まっていった。

しかし一方で、Mは寂しがりやのようで、どこに行くにもひとりでは嫌、というタイプのようだった。

彼は水泳部、わたしはテニス部だったのだが、水泳部の部室に行くのに付いてこい、というようなことをよく言ってきた。

面倒くさいからやだよ、と言うと、アイスおごるから!とか言ってくる。

仕方ないから付いていく。アイスはおごってくれないこともままあった気がする。よくよく思い出してくるとムカついてきた。

いまでも覚えているのだが、友人と新宿に来ていたときにMから電話が来て、遊戯王カードのことを延々と1時間くらい聞かれた。

たしかこれは出会って数週間くらいのことだ。

ひとと仲良くなるまでに数ヶ月を平気で要するわたしにとって、その積極的な姿勢は驚きに当たるものであった。

一緒にカードショップに行ったり、一緒に漫画喫茶に行ったり、一緒にマックに行ったり、一緒にラーメン食べに行ったり、一緒にゲーセンに行ったり、一緒に廃墟に行ったり。

一緒になにかをした思い出は数限りない。

 

漫画喫茶では、いかにも中学生らしくグロ動画や検索してはいけない言葉などを調べていた。廃墟に行くための情報を調べたりもした。

ラーメンはだいたい池袋で食べた。テスト期間中など時間があるときは、Mが先頭に立つかたちで後ろに何人も付いていってラーメンを食べるようなこともあった。やはりMのカリスマ性は抜群だったのだろう。

昔、池袋東口パルコ横に観光案内所があり、毎回そこでMは地方から上京してきた学生のふりをして、東京の美味しいラーメンを教えてください!とくだらない小芝居を打っていた。観光案内所のおばちゃんたちも、頻繁に来るわたしたちのような馬鹿共によく付き合ってくれたものだと思う。いろいろ調べて、ここのラーメンが人気だよ!なんて教えてくれた。MはMで毎回栃木から来ただの群馬から来ただの、バリエーションをつけており、絶対おばちゃんは気づいていたがのってくれていた。

おかげで池袋の有名所のラーメンは東口。西口問わずかなり制覇したのではないか。

おばちゃんに感謝である。

 

ゲーセンは、いまではほとんど無くなってしまったが、池袋のブランズウィック(バッティングセンターやボウリングも併設。中華料理屋も併設されていたがあまり美味しくなかった。数年前に廃業)や江古田のアミューズメントフタバ(このあいだ行ったらスーパーになっていた)やぐりんぐらす(このあいだ行ったら会社が入っていた)や秋葉原タイトーステーションなどによく行った。

わたしは「クイズマジックアカデミー」をプレイしており、相当のめり込んでいた。当時、学校全体でマジックアカデミーのブームで、わたしは休日にもMとゲーセンに通っていた。また休講情報が入れば真っ先にフタバに駆けつけた。Mはガンダムの格ゲーをやっており、わたしの分も出してくれて対戦をすることもあった。

人数がいれば「ビシバシチャンプ」というとにかくボタンを叩きまくるゲームをプレイしたり、エアーホッケーなども楽しかった。

逆にUFOキャッチャーやマリカなどはほとんどしなかった気がする。

 

廃墟は「行川アイランド」に行ったのが中3の時。

入り口には高いフェンスがあり、有刺鉄線が巻きつけてあり、侵入を拒んでいた。

何よりも怖かったのは、常に人の気配がしていたことだった。

その時はわからなかったが、土地の管理者が警備の人を出しており、なかには見回りの人がいたのだ。

帰り際に掃除をしていたらしいおばさんに見つかり、ダッシュで逃げ、有刺鉄線のフェンスをよじ登ったところ、ジーパンが勢い良く破れダメージジーンズになってしまったのも、本当にいい思い出なのだ。

もう取り壊されてしまったようだが、「九段下ビル」という壊れかけのビル(実際は入居者がいる)に行ったのも懐かしい。

 

 

とりとめもなく思い出話を書くことは出来るが、そろそろまとめて次回に回したい。

Mはどこのグループにもなんとなく属しているムードメーカーではあったが、特に誰と親しい、ということはなかったのではないか。Mは同窓会などに来ても、旧交を温める友人たちを蚊帳の外で冷めた目で見ている。わたしはテニス部の仲間と話していたりするのだが、わざわざ隣に来たりする。

 

Mがよくいじっている別の生徒がいた。こいつもMなので、以下mとする。

わたしはmのことはよく知らないが、よくMがいじっているので、便乗していじったことも何度もある。

そのとき1対1で面と向かってmから言われたことが今でも忘れられない。

「今日は親分のMはいないのか?」

俺はMの子分として見られていたのか、と愕然とした。

そのとき世界が真っ暗になるような感覚を覚えた。

Mとは付き合いをやめよう、とそう思った。

わたしはプライドだけは一人前に大きかったので、「子分」という言葉のナイフは一番深く刺さった。

 

(次回、学園祭編)