上善は水の如し。
滔々と水が流れていく。
清く、涼やかな水だ。
それは滾々と湧き上がり、溜まることなく、淀むことなく流れていく。
木々の緑を溶かし込んだ色で、柔らかな日差しを浴びてキラキラと輝いている。
わたしは水の流れを見ている。
試みに、足元に落ちていた木の枝を差し込んでみる。
水は木の枝にぶつかり、一瞬だけ動揺を見せ大きく盛り上がるが、すぐに冷静さを取り戻して流れ下っていく。
わたしは水が好きだ。
その透き通った美しさは宝石にも比肩する。
その柔らかなあり方を大変好ましく思う。
まさに、老子が「上善は水の如し」と記した通りだ。
では翻って、わたし自身はどうだろうか。
わたしはわたしのことが嫌いだ。
わたしは美しくなどなく、誰からも愛されない。
誰もがわたしを見て路傍の石を見るような、無関心の視線を投げつける。
そのたびにわたしはひとり静かに、そして深く傷ついていく。
わたしはわたしのことが嫌いだ。
しかしそれは、わたしの自己愛が歪な形で湧き上がっているに過ぎないのかもしれない。
ここで湧き上がっているのは、清冽な水などではなく、淀みきった薄暗い感情だ。
感情の奔流は濁流となってわたしの中を駆け巡り、その強力な侵食作用でわたしを削り取っていく。
わたしは磨り減っていく。
わたしはなにもわからない。
わたしにもなにかがわかる日が来るのだろうか?
なにもわからないわたしだが、わたしは水になりたい。
願わくば、その清さを好んでくれる美しい魚を住まわせる事のできるような、澄み渡った水に。
そして守りたい。
その美しさを、その尊さを、その生命を。