冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

ambivalence ambulance

最近,家の庭にきのこが生えていたので「オッ」となった。

意外ときのこは色んな所に生えている。前に近所のメガネドラッグの看板からきのこが生えていて,あれってどういうシステムなんですか?と店員に聞きたくなったことがあった(が,こらえた)。実際は看板に土が乗っていたとかそういうところだろう。得てして真実というものはつまらない。

 

きのこはどこからだって生えてくる。セミからもアリからも紅茶からも。最近知ったがスエヒロタケというキノコが人の肺の中で育って肺炎のような症状を起こすのだそうだ。嘘のような本当の話。

 

きのこは強い。こどもは風の子,こどもは木の子。なんか適当に言ってみたら『風と木の詩』みたいになった。だからどうということも無いが……これは,多くの平穏無事に生活してきた人たちの性癖の壁(”性壁”とでも言えよう)をぶっ壊したと思われる作品。最近作者である竹宮恵子氏の自伝『少年の名はジルベール』(装丁が格好良いし萩尾望都氏らとの「大泉サロン」時代が面白く描かれているのでオススメ)を読んで色々と思い出したりした。

 

話が脱線してしまった。

 

ところで僕たちが平穏無事に生活している帳をいきなり引き裂くものがある。それがきのこだ。

やつはいきなり現れる。足元に,植込に,根本に。土さえあればどこにだって。そして日常を浸食してくる。そのさまは,お前たちの暮らす日常なんて脆いものだ,足元に気をつけな……とでも言いたげにも思える。

 

きのこはなんだか非日常的だ。まあ少なくともツツジの植栽と同レベルの日常感はないだろう。紫陽花よりも。朝顔よりも。鬼灯よりも。強いて言えばトケイソウに匹敵する非日常感。トケイソウは花が時計っぽくて面白いし実はパッションフルーツなので好きだ。いきなり真っ赤なベニテングダケや”死の天使”ことドクツルタケが生えてくれたら嬉しいが,実際はだいたいなんか茶色の地味なきのこだ。それかサルノコシカケっぽいやつとかキクラゲっぽいやつとか。しかしそんなものでも胸は高鳴るものだ。

 

僕ときのことの出会いは(記憶の限りでも)幼稚園の頃まで遡るから,因縁浅からぬ関係と言えよう。

雨上がりに園内のブランコで遊んでいた僕は足元の小さい袋状のきのこを見つけた。いま考えると多分ホコリタケというきのこだったのだろう。こいつは袋をつまむと中の胞子が粉状に飛び出す……はずだった。

ところが,雨上がりだったためか,水風船よろしく水がピュッと飛び出して顔にかかった。大した勢いでもないが,それは幼稚園児を魅了するには十分だった。僕は翌日もその次の日もそいつを見に行ってツンツンと触ったりしていた。翌日は晴れていたのでバフッと粉状の胞子が飛び出した。

 

しかし数日後,そいつは跡形もなく無くなっていた。きのこの寿命が短いのか,誰か心無い人がもぎ取ってしまったのか……確かにきのこはもぎ取りたくなるフォルムをしているのは間違いないが,幼稚園児にして人の世の儚さを学ぶことになった。切ない。

 

また話が逸れたが,そう,きのこは非日常なのだ。マジックマッシュルームなんていうし。見つけるとなんかハイになる。

 

一方できのこほど日常的なものもないだろう。だってスーパーに行けばなめこが58円。エリンギが78円。ブナシメジが98円。安くて美味しい。茹でてサラダに入れるのもよし,バターで炒めて食感を楽しむのもよし,煮込んでいい出汁も楽しむのもよし。なんとも日常っぽい食材だ。

 

きのこはambivalent(ここでタイトル回収。ちなみにタイトルは語呂がいいから付けただけ)。日常的だし非日常的。どこにでもあるしめったにない。そして僕はそんなきのこの二面性に惹かれるのかもしれない。