冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

S氏の隣人

昨日とテンションが180°違いますのでお気をつけください。さながらジェットコースターです。

 

昨日でこのブログは5周年だったらしい。これを書いてるライカさんは誕生日が8/20なので,大学3年生の誕生日の翌日に始めたようだ。多分当時,何かと思うところがあって始めたんだろう。最初の頃の記事を見返すと何やら感慨深い。

 

ここ数日更新頻度が高いのは,書きたいなーと思うことがぽんぽん出てくるからで,それは精神状態が良いからだと思う。ほぼ1年くらい何も更新していなかった時もあったし。今回はその暗黒の時代について書く。これは早く書かなきゃいけなかったんだけど,書く度に頭がごっちゃになってしまって,下書きに残しては消して,また書いては消して……と繰り返して,ずっと目をそらして背を向け続けてきた。

 

暗黒から抜け出した時期(転職活動について)は以前に書いたことがある(http://komaryuzouji.jugem.jp/?eid=485)。一人暮らしを始めて,転職先で働き始めて,ようやっと気持ちが落ち着いてきた頃に書いた記事だ。この記事を書いたことがきっかけで,スラスラと書きたいことが出てくるようになった気がするし,書いてよかった。

 

しかし,肝心の暗黒の時代にはあまり触れていない気がする。まあその頃のこともちょこちょこツイートしてるから,ちょっとは知ってるひともいるかもしれないけど。なので今日は過去を総決算していく。

 

タイトルは吉田ひろゆき氏の漫画『Y氏の隣人』から。この漫画は『笑ゥせぇるすまん』をさらに不条理にした感じの漫画で,自分の人生観に大きな影響を与えている。オススメなので読んでみて。

 

さて。S氏の隣人というタイトルだが,S氏というのは前職の上司の名前だ。そして,私が転職を決めたきっかけになった人のことだ。ただ誤解しないでもらいたいのは,私はS氏のことが嫌いではない。思い返すのも嫌な人だったら,わざわざブログになんか書かない。出会い方さえ違っていれば,もっと良い関係を築くことが出来たという確信がある。仮にS氏と同い年だったら間違いなく仲良くなれただろう。それくらい私とS氏は性格がよく似ていた。…主に悪い点で。

 

まず私の性格は,人に話しかけたり出来ないというものだ。それは人から「……(だからなに?)」と思われるのが怖いから。逆に言えば,私も人からどうでもいいことで話しかけられると「……(だからなに?)」と思ってしまいイライラする。当然ずっと友達は少なかった。大学ではだいたい一人で講義に出ていた。「よっ友」という関係が嫌いで,よく知りもしないやつから「よっ」なんて言われるのが堪らなく嫌だったし,誰だよてめーはと思いながら下を向いて歩いていた。

 

でもさすがに社会人になってホウレンソウ(報告・連絡・相談)も出来ないのはまずいなと考えていたので,割と頑張ってみた。どうでもいいことで声を出して笑ったりした。部活の合宿にも参加してみたりカラオケイベントに参加してみたりした。昔から飲み会は結構好きだったから,積極的にいろいろな場所に顔を出して顔を売った。そしたら意外と楽しかったし,かわいがってくれる人もいた。最初に配属された部署は総務部で,社内の人に顔を覚えてもらうと円滑に仕事が進むような部署だったから,なおのこと頑張っていたというのもある。最初の上司も,そんな私を「ライカくん」と呼んで割とかわいがってくれた。「誰だよてめーは」と周りに噛み付く悪しき心を封じて,まっとうな社会人みたいな顔をして過ごしていたし,それはそれで楽しかった。

 

しかし,ひとつ満たされれば次をと求めるのが人間の性。私は”次”を求めた。

まずは学生から社会人になるファーストステップは上々。次は,「やりたいことをやりたい」。

 

総務部というのは私のやりたいことではなかった。そういえば書いてなかったが,私は現職も前職も出版社だ。出版社に入ってくるだいたいの人間は編集者になりたいと思って入ってくる。でも実際は営業だったり経理だったり,それこそ総務部に回されることだってある。やりたいことが出来る会社だからって,やりたいことが出来るわけではないのだ。さらに言えば,あなたがやりたいこと=会社があなたにやってもらいたいこととは限らない。会社は利益を最大化するように人員を配置する。あなたが編集者になりたくても,法学部出身だったら法務の知識を活用させようとするし,経済学部だったら経理の知識を活用させようとする。これはあくまで一例だが,得てしてそういうものだ。

 

人事部長にその旨を伝えると,「ライカくんがやりたいことは分かった。検討してみよう」と言ってくれた。ちなみに私は人事部長のことを尊敬していたし,総務部と同じフロアにいた人事部のメンバーも全員好きだった。人の環境という点では,その部署は申し分なかったのだ。

 

そして運命の人事異動。私は編集部に異動になった。ちなみに総務部から編集部への異動というのは極めて珍しかったので,周りからは「あいつはなにかやったのか」みたいになった。別に悪いことは何もやってない。やりたいことをやりたいと言っただけ。胸を張って編集部のフロアにデスクを動かした。

 

ーそして,S氏に出会った。出会ってしまった。

 

S氏の容貌は,ちょっと犬に似ている。上等のではなく,野良犬。口数少なく,そんなに歳でもないのに髪は真っ白で目付きが鋭く無愛想で,とにかく声が渋い。大学でラグビーをやっていたらしく,ガタイが良い。

 

異動初日,S氏はふたりで飲みに連れて行ってくれた。小汚い街の居酒屋だ。前の上司は酒もタバコもやらなかったが,S氏は酒はガンガン飲むしタバコもスパスパ吸った。前の上司の上品さが少し物足りなかった私は,見た目はちょっと怖くて無愛想だけど私を「ライカくん」ではなく「ライカさん」と呼び自分のことも「Sさん」と呼ばせて,お互いに一編集者として対等の立場で編集者の流儀を語るこの人のことを,好きになってしまった。

 

じゃあ良かったじゃないか,とはならない。なぜなら,これは最初からバッドエンドが約束された話だからだ。

 

翌日以降,S氏と交わす言葉は一気に少なくなる。なぜなら何をホウレンソウ(報告・連絡・相談)しても「なんで?」と返されてしまうから。「なんで?」「もしこうだったらどうするの?」「なんで?」「ちゃんと考えてよ」「なんで?」「なんで?」「なんで?」……とどこまでもどこまでも無限に続く「なんで?」。

 

わかっている。きっとそれは,「なんで?」を繰り返すことでより考えをブラッシュアップさせようとするS氏なりの優しさだったのだろう。S氏は常に正しかった。いつだって正論だった。編集職場は社内でも最も忙しい部署で,そこで20年以上勤めて編集長をやっているS氏は,いわば修羅場を何度もくぐり抜けてきた歴戦の古強者だ。しかし渋い声でこちらを睨みつけながら解決策も提示せずに「なんで?」と無限に言われるというのは,とても好意的には受け取れない。S氏は「こう考えてみたらどう?」という提示は最後の最後,スケジュールがやばくなった時まで絶対にしてくれない。優しさを汲み取るとか以前に,まず恐怖の念にかられてしまう。苦痛でしかない。早く終わってほしい。次第に足が震えてくる。冷や汗が出てくる。めまいがしてくる。自分の前にいる「なんで?」を繰り返すだけの”これ”がなんなのかわからなくなる。

 

これもおそらくはS氏なりに部下に「自分で考える力をつけさせる」方法論だったのだろうが,ほとんど何も教えてくれずに「貴方の仕事なんだから貴方なりに進めて」という感じで仕事をやらせようとする。わからないことだらけなので当然行き詰まる。編集部に来たはいいものの,引き継ぎもほとんどなく何も聞いていないのだ。そして恐る恐る聞きに行くと「なんで?」「なんで?」「なんで?」……うんざりしてだんだん聞きに行かなくなる。すると「なんで聞かないの」「なんで報告しないの」と怒られる。しまいには「私から聞きに行かなきゃ貴方は何も話してくれないでしょう」と言われる。言葉遣いが嫌に丁寧なのが逆に空恐ろしさを助長した。ひたすら怖いという感情が日に日に強まっていった。S氏の目を見ることが恐ろしくなり,私の目線はどんどん下がっていった。それは心を反映しているかのようだった。

 

こういう状態になってしまうともうどうしようもない。どんどん目線は下がっていく。やっぱり人とは分かりあえない。笑顔で人と話しても意味ない。私は地面を見ている。バカバカしい。なんだこいつら。どっかいけよ。いなくなれよ。私は地面だ。いなくなってくれ。……いや,自分がいなくなればいいのか……というように心がだんだんと壊れていき,入社以来封印していた「誰だよてめーは」の悪しき心が出てきてしまった。営業部長から「ミスタースマイル」と呼ばれた笑顔が消え,飲み会であれだけ饒舌だった口数は減り,私はずっと下を向き続けた。S氏と目が合えば怒られる。怖い。私は虫けらだった。野良犬に睨まれて何も出来ない虫けら。踏み潰されてはじめからいなかったことになる虫けら。

 

「相手はいまこれをしてもらいたがっているのに貴方は何もしていない」と怒られる。私は相手の目を見ていない。「貴方が準備していないからこんなことになっている」と怒られる。私は相手の目を見ていない。「黙ってるんじゃわからないから。なんとか言ってくださいよ」と怒られる。私は相手の目を見ていない。永遠に交わることのない視線。「貴方が」「貴方が」「貴方が」。S氏はいつだって私のことを「貴方」と呼ぶ。初めて会った日は「ライカさん」と呼んでくれたのに。いつも距離を感じさせる言い方で私を突き放そうとする。私の心をめった刺しにしようとする。痛い。

 

毎日足がフラフラしていた。昼休みはひとりで社食で食べて,すぐに図書室で寝ていた。誰とも話したくなかった。S氏も昼休みは社内のソファーで寝ていて,昼休みが終わるチャイムとともにデスクに戻ってくる。昼休みは1分たりとも働かない!という鋼の意志は両者に共通していた。

 

会議のある日。私は性格的に,ありったけの書類を持って会議室に早めに行くことにしているので,始まる15分前には着いている。ほぼ時を同じくしてS氏も大量の書類を抱えて入ってくる。同じ性格をしているからだ。だが目線は合わない。無言。しばらく誰も来ない。5分前くらいにみんなが入ってきて,定刻になると会議が始まる。会議で私が話せば必ずS氏による「なんで?」というツッコミが入る。今言わなくてもいいのに……という「なんで?」が深く鋭く突き刺さる。手が震える。急速に口が乾いていく。その一方で冷や汗は止まらない。頭が真っ白になる。「会議で黙られても困るんだけど」と言われる。何もわからなくなり目の前がゆらゆらする。ゆらゆら。俺は空洞。でかい空洞……

 

会議が終わった後に「ああいうの困るんですけど。何度も言ってますけど,黙らないでくださいよ」と言われる。それは憎々しげに,私を横目で睨みつけるように。私は小さい声で「……すみません」とだけ応え,席に着く。生きててすみません。

 

私が強い意志を持っていれば良かった。このくそ上司ぶっ殺してやる!!と猛烈に仕事に取り組めるような人間だったら良かった。そしたらS氏はきっと私を認めてくれただろう。でも,そうはならなかった。なぜなら私は弱かったから。弱すぎたから。すぐに泣いてしまうような虫けらだったから。人から傷つけられることが怖くていつもひとりでいた,ただの弱いものだったから。はじめから解決法なんてものはひとつしかなかったのだ。

 

それは,私がいなくなること。

 

だから私はいなくなることにした。転職活動を進め,無事内定を勝ち取った。当然S氏に報告することになる。頭の中で何度もシミュレーションを重ねて冷や汗をかきながら「話がある」と告げた時,S氏はこれまでにない虚をつかれたような表情を浮かべた。私から業務内容以外で話しかけることなんて皆無だったから,驚いたのだろう。

 

ふたりで別室に移動した。どこまでも弱く情けない私は,嘘をついた。最後にS氏に小さな罪悪感を植え付けてやろうと思った。そこで「毎日辛くてクスリに頼っている。最近特にクスリの量が増えてきた。もはや社会生活がまっとうに送れなくなってきたので,会社を辞めたい」と言った。S氏は必要以上に私のことを心配してくれた。いままでの無愛想が嘘のように饒舌に話しだした。「周りに相談できる人はいるの?」「まずはいったん休職というのはどうかな?」「ライカさんのご両親はご心配されているんじゃないか?」……ああ。そうだ。この感覚。私はこの人に気にかけてもらいたかった。ここにいることを見てほしかった。「貴方」ではなく「ライカさん」として見てもらいたかった。

 

終わりを告げた日にその「夢」が叶うなんて。

 

もともとS氏は周りに気を遣える人だった。この気配りはとにかくすごくて,資料を忘れている人がいれば予備を5部くらい持ってきて渡し,会場までの道筋が分からない人がいれば事前に印刷しておいた地図を渡すような用意周到さがあった。仕事だってそうだ。S氏に任せれば完璧だった。私がやった仕事を土日ですべてチェックし,間違っているところには「違う!」などと書かれた付箋がビッシリと貼り付いて返却されてくる。「見ました」とだけボソッとつぶやいて,私のデスクに無造作に置く。そんな人だった。「ありがとうございます!」と言うと嫌そうに「仕事なんで」と言う。そんな人だった。

 

私は会社で初めて泣いた。社会人になって,ましてや社内で泣くなんて。恥ずかしい。本当に恥ずかしい。見られたくない。でもそんな思いとは裏腹に,涙は止まらなかった。憎んでいるんじゃない。嫌いなんじゃない。この感情はなんなんだろう。

 

私が泣いている間,S氏は何も言わなかった。これが普段の打ち合わせだったら「もういいですか」とか言ってすぐに切り上げようとするS氏だったが,その日ばかりは何も言わなかった。何も言わずに私を見ていた。慰めるでもないのがS氏らしいが,逆の立場でも私は何も言わなかっただろう。

 

そしてその日から2週間後,私は退職した。最終日,社内のみんなに餞別のお菓子を配って回った。いい人が多い会社で,その会社のことはいまでも好きだから,離れる選択肢しか選べなかったのは本当に残念だった。S氏には特別に,とらやの羊羹を買っていった。袋を渡し「短かったですがお世話になりました」と告げる。エレベーターまで見送ってくれたS氏は自嘲気味に「人を見送るのに慣れちまったよ」とつぶやく。実は私の前の部下も辞めていて,他に派遣社員が3人入ったが全員数ヶ月で辞めてしまっていた。閉じるエレベーター。私は頭を下げ,S氏も頭を下げる。やっぱり目線は合わない。そしてエレベーターは閉じ,全ては幕を閉じた。

 

過去を総決算する,とまではいかないにしても,いくらかは胸の心情を吐露できたような気持ちがある。

 

同時に,いまの平穏な日々が,この戦場のようだった日々の上に成り立っていることを実感する。いまの奇跡のような日々は,この地獄のようだった日々の上に成り立っていることを実感する。

 

……でもなんだろう,この胸にぽっかりと空いた穴は。それはなんだか分からない。分からないけど。傷ついて毎日を生きていくよりは楽しく生きていったほうがいいんだ,きっと。

 

それでは最後に。

人よ,幸福に生きよ!

 

ありがとうございました。