冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

三丁目と四丁目の間で(夕日は見えない)

昨日こんなブログを書いた(http://komaryuzouji.jugem.jp/?eid=497)。その前半で最近読んでいる『凪のお暇』という漫画について書いていて,本筋ではないので早々に話を終えてしまったのだが,今になって書きたいことがムラムラっと出てきてしまった。

 

昨日のブログではこんなことを書いた。

この漫画(『凪のお暇』)の良いところは,「何もない生活っていい!私たちは物質的には豊かかもしれないけど精神的には貧しくなってしまった!!ここには私たちが忘れてしまった大切なものがある!!!」とかクソしょうもない精神論を説くわけではないというところだ。

私たちはともすればすぐに昔を懐かしみ,それを無批判で礼賛する。高度経済成長期を振り返っては「あの頃日本は元気だった!」と言い「現代日本では失われてしまった絆があった!」と遠い目をして語る。実際がどうであれ思い出というものはいつだって美しいから,それを振り返ることが必ずしも悪いことだと思わないけれども,その「美しい思い出」を作る過程で無意識に切り捨ててしまっている”なにか”には常に敏感でありたい,と思う。

 

お気づきの方もいるだろうが,タイトルは『三丁目の夕日』(西岸良平)と『四丁目の夕日』(山野一)から取っている。勿論後者は前者のパロディ作品だ。

 

まず,『三丁目の夕日』は基本的には過去を礼賛する物語である。昭和三十年代の日本を舞台に,狭い町で繰り広げられる様々な人間模様。大きな事件が起きるわけではない。なんてことのない,でもいまでは決して手に入らない「日常」がそこにはある。基本一話完結なのでストーリーというストーリーはない。たまに「交通戦争」とか「受験戦争」といった不穏な影はよぎるものの,全体を通じて明るく牧歌的な雰囲気が漂っている。

 

 

実は私はこの作品のファンだ。というか西岸良平の作品は大好きだ。温かみのある絵柄はやはりほっこりする。別に私は人が死んだり不幸になる物語が好きなわけではなく,好きな物語で人が死んだり不幸になっていくだけなのだ。誤解しないでほしい(『よつのは』というエロゲーで主人公が似たようなこと言ってた)。

 

実写化作品である『ALWAYS 三丁目の夕日』しか知らないというひとも多いようだが,是非原作も読んでほしい。絶対そっちの方が面白いから。私は原作のもっさりした青年・六さんを堀北真希演じる美少女・六ちゃんに作り変えてしまった劇場版は好きではない。そもそもALWAYSってなんだよ。勝手な横文字を入れるな!あと同作者の『鎌倉ものがたり』の実写化『DESTINY 鎌倉ものがたり』ってなんだよフザケてんのか!?……と文句を言い出すとキリがないのでこのへんにしておく。

 

 

翻って,『四丁目の夕日』は読んだことがないひとも多いと思う。私も先月まんだらけで入手するまで,ネットで得た断片的な情報しか持っていなかった。が,やはり手に取って紙面として読むと衝撃は大きい。優秀だった主人公が印刷工場を経営している父の死をきっかけに借金まみれになり,どんどん不幸になっていく物語である。父は書くのも憚られるような方法で死んでしまう(そしてその死に様は見開きでドーン!と描かれる)のだが,まあ印刷機はひとを巻き込んでミンチにしてしまうこともある……とだけ書いておく。『マブラブオルタネイティブ』『神宮寺まりも』とかいえばまあ何となく分かるのではないか。表紙も無機質で薄ら寒い感じがする。

 

 

ここでは「いまでは決して手に入らない『日常』」なんて綺麗事はいっさい描かれていない。「絆」は主人公を助けてはくれないしそれどころか彼を不幸のどん底に陥れていく。彼は「ドブネズミみたいに美しく」もなく,ただの薄汚いドブネズミとしてラストではデウス・エクス・マキナ的な不条理によって完膚無きまでに叩き潰される。

 

ほぼ同時代を描いたふたつの作品で,時代がここまで真逆に描かれている。じゃあどっちが正解なんだ,と言えばどちらもひとつの時代を両極端な視点で眺めているだけに過ぎないので,どちらも正解ではない。夕日はいつだってひとつしかない。三丁目の住人は微笑みながら穏やかな目でそれを眺め,四丁目の住人は悲しみの涙に霞んだ目でそれを眺めていただけのことだ。

 

ただ言えることは,『三丁目の夕日』は極力『四丁目の夕日』的な汚さを排除した世界であり,『四丁目の夕日』は逆にその時代の汚さを全て飲み込んだ世界だということで,それは陰と陽の文様と同じことだろう。光あるところ必ず影はある。ここが最初の話に繋がってくる。

 

「何もない生活っていい!私たちは物質的には豊かかもしれないけど精神的には貧しくなってしまった!!ここには私たちが忘れてしまった大切なものがある!!!」みたいな話って本当にテレビをつければいつもやっている。みんな本当にそう思って言ってる?じゃあ「私たちが忘れてしまった大切なもの」ってなに?もっと具体化してみて。たぶんその実は「虚無」とかそんなんだよ。言葉にしないことでまるでとっても意味があるような秘蔵仏にしないでさ,ちゃんと語ってくれ。

 

※余談だが,昔行った太宰府天満宮で面白いインスタレーションをやっていた。

由緒ありそうな古めかしい建物の中にキラキラ光る玉が置いてある。作品タイトルは「本当にキラキラするけど何の意味もないもの」。物事の本質を鋭く捉えたようでとても良いなあと思って,強く印象に残っている。

公式サイトにまだその情報が残っていたので掲載しておく(http://www.dazaifutenmangu.or.jp/art/program/vol.6)。

 

その時代にそんなに帰りたいんだったら勝手に帰ってもいいけど,少なくとも私はスマホもコンビニもインターネットもないその時代に帰りたいとは思わない。そして多くの人は,その現代の便利さから逃れられないとも思う。光の部分ばかり見て影は見て見ぬふり,あまりに一方的な視点でしかものを見られないひとというものも,世の中には確かに存在している。

 

 

2019年には平成は終わる。その先がどうなるのか,全くわからない。三丁目と四丁目で夕日は確かに見えていたが,それはいまでは見えない。

もう私は26歳だ。すでに老いてしまった。肉体年齢はともかくとして,感性はどんどん老いていく。いまだにおもしろフラッシュの話なんかで盛り上がってしまうのは,時代の断絶でしかない。

私はもはやTwitterFacebookInstagramを通じてしか,現代の若者の思考を垣間見ることは出来ない。きっとそれらだってすでにアップ・トゥ・デートなものではない。TikTokというものが流行っているようだが,26歳にはもうついていけない。文化が違う。本当に若い人たちが何を考えているか,何をやっているかなんてのは同世代にしかわからないのだ。「うんうん,ボクは若い人の気持ちがよく分かるんだ。心はまだ十代だからね」なんて言ってるおっさんの信用できなさったらない。だから「わからない」を前提に,次代を担う人々と接していく必要がある。謙虚に。

 

ひとは誰のこともわからない。自分のことだってよくわからないのだから。