冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

夭逝はあきらめた

うせい【夭逝】

(名)スル

年若くして死ぬこと。若死に。夭折。「将来を期待されながらも-した」

 

大辞林第三版,三省堂,2006)

 

このブログでも折に触れて述べているように,私は今年で26歳になった。いわゆるアラサーである。そんな私も中学生くらいの頃には漠然と「25歳くらいまで生きられればそれでいいな」と考えていたし,「夭逝はカッコいい。長生きはダサい」とか「Don't trust over 30」とかなんとか言っていた。その理屈で言えば私はそろそろ死ななければならないわけだが,いまのところ死ぬ予定は全くない。少なくとも自死をする予定は。

 

「長生きはダサい」という感情を,中二病と言って切捨ててしまうのは簡単だ。口癖のように「死にて~」と言う若者だっていっぱいいるだろう。別にそれはそれで良いのだと思う。実際のところ本当に死ぬのはごくごく一部だし,大多数の死ななかったひとを「言ったからにはちゃんと死ねよ!」などと責めるべきではない。論理の一貫性と現実の正しさは必ずしも一致しないし,正論の刀は正論であるがゆえに常にひとを傷つける。

 

26歳になったもはや私は,夭逝をカッコいいとも思わないし,長生きをダサいとも思わない。それを私が年老いたからだと評価すべきなのかどうかはわからないが,結果として私は夭逝をあきらめ,「いま」を生きることを選んだ。過去でも未来でもなく,地に足の着いた「いま」を。

 

「いま」の地点から26年間を振り返ってみれば,とにかく私は逆張りに生きてきたようだ。本当は素直に生きたかったのだが,そのように生きてきてしまった。

 

小さい頃から子どもらしくない子どもだった。多数決でみんなが「A!」と元気よく手を挙げれば,特に理由もなく「B」と答えるような子どもだった。そしてBと答えてからそれを選んだ理由を考えるような子どもだったのだ。「みんなAって言うからB!」と答えるのではなく,理論武装をするあたりが嫌らしい。

 

逆張りもさることながら,すべての行為に理由を求めたがる子どもだった(これは今でもあまり変わっていない)。だからいまでもひとに「これをやって」と言われても「なんで」の部分がわからないと出来ない人間だ。同義語としては「めんどくさいやつ」というものが挙げられる。

 

小学生の頃,制服があった。「なんで制服を着なくちゃいけないの?」という疑問に大人は「ライカくんが入った学校に制服があるからだよ」としか答えてくれず,その不満はすぐさま「制服のない中学校に行きたい!」に繋がり,制服どころか校則すらない中高一貫男子校に入学した。私服を取る代わりに色んなものを失ってしまった気がするが,楽しかったし,それはそれで良いのだと思う。

大学に入っても「なんで興味のない講義に出なくちゃいけないの?」とか「なんでサークルのひとと一緒にごはん食べなきゃいけないの?」とか色々なことを考えていたら,キャンパスライフにおけるマジョリティーの輪からはじき出されるのはあっという間だった。そして「おまえらマジョリティーがそうするんだったら俺はよ……」という逆張り意識があったのは言うまでもない。だからどう過ごしたら楽しいかを自分で考えて,同じくマジョリティーから少し外れたひとたちと楽しく過ごした。それが悪いことだとは全く思っていないし,やっぱり楽しかった。

会社に入ると「なんで」が通用しない領域が増えてくる。学生の頃は意識しなかった,年長者の圧力に対して「なんで」を押し通そうとする勇気がいる。そしてそれと同時に,逆張りの意識がムクムクと頭をもたげてくるのだ。

前職で管理系の部門にいた時,社会人のシャツインしたワイシャツ+真っ黒いズボンの葬式みたいな組み合わせが大嫌いだった私は,せめてもの対抗意識として常にカーディガンを身に纏っていた。クールビズだろうが外気が35℃だろうがなんだろうが,カーディガンを羽織っていたのだ。先輩からは正気の沙汰ではないと言われたが,私は頑としてそれを着続けた。逆張りもそこまで来ると立派な気狂い(きぐるい)だ。

 

そうやって振り返ってみると,逆張り&理由付けが私の人生の指針なのだ,と思う。

元々私はすぐにひとからの言葉に病んでしまうような弱くてネガティブな人間だ。そもそも逆張りというのは多数派に与しない,ネガティブな行為を指すわけだし。生まれつきネガティブな人間だ。

そしてインターネットにはネガティブな意見が溢れている。「どうせ私なんか」「気持ち悪い」「不安だ」「意味ない」「死にたい」「つまらない」「帰りたい」「虚無だ」「バカだ」「鬱だ」とか。それらはポジティブな意見よりも圧倒的に多い。多数決を取ったらネガティブの方が多くの手が挙がるのだろう。

 

だからこそ,いまでは私は「ネガティブはダサい」と考えている。「みんなネガティブなんだったら,逆張りしてポジティブになるのがカッコいい」と。そういう逆張りのポジティブだってアリじゃないか。「いま」をポジティブに生きる。それ,とってもいいことなんじゃないの。

 

夭逝はあきらめた。逆張りでも何でもいいから,「いま」をポジティブに生ききってやろうと思った。

ところでそもそも「夭逝」というのはしばしば天才に対して使われる言葉であるところからして,あきらめるも何も凡才のアンタは……というのが実際のところなのだが,それはそれとして。

 

タイトルは南海キャンディーズ山ちゃん(山里亮太さん)の『天才はあきらめた』より。 

天才はあきらめた (朝日文庫)

天才はあきらめた (朝日文庫)

 

終わり~。