冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

思いますじゃないんだよ,と彼は言った。

くの人の口癖で「~だと思います」というのがある。「違うかも知れないので断言はできないが多分そうだ」という,間違っていたときのための一種の消極的・予防線的な言葉ともとれる。とはいえ,実際のところは予防線だとか何だとか考えることなくほぼ無意識に言っていると思う。……まあこんな具合にだ。

 

似たようなニュアンスに「とか」というものがある。以下に例を示す。

「ほら,わたしとか結構流行好きなひとだから~」

イラッとするひともいるだろう。ここでのイラッとポイントは大きくふたつある。

①「わたしとか」の「とか」ってなに?登場人物は他に誰かいるの?

②「流行好きなひとだから~」の「ひと」ってなに?「流行好きだけど『ひとではないなにか』がいて,わたしはそれではない」という含意があるの?

 

といった感じだ。①の「とか」は文語に置き換えると「等」「など」が当てはまる。公文書でよく見られる表現だ。わたしも前職では教科書という,ある意味公的な書籍の編集部にいたため「等」「など」は愛用していた。揚げ足を取られないためにだ。世の中には特に政治的な分野となると他人の揚げ足取りに必死なひとがいて,自分の「研究成果」を発表するために問い合わせてきたりする。「その政治的な記述にはこれも含まれているはずだ!誤記じゃないのか!」とかという揚げ足取りにも「ここに『など』と書いてありますので……」と逃げることができる。大変便利な言葉なのだ。

 

さて,このブログで触れるのは何度目になるのかわからないが,タイトルの「思いますじゃないんだよ」と言っている「彼」とは前職の上司だ。氏は大変言葉に敏感なひとだったため,氏の下で働けた時間は(ポジティブに言えば)言葉に対する感性が鍛えられたと言える。この種の感性というのは出版社では必須なもの,と言い切ってしまってよいだろう。

 

たとえば。現在の進捗状況を報告するにあたり「200ページ目までは今週中に印刷所から出てくると思います」と言うと,彼は原稿を見ている顔を上げてわたしを睨み付ける。普段から目付きが悪いので睨み付けているわけじゃないのかもしれないけど,そう見える。そして聞き取れないくらい低い声で「思いますじゃないんだよ」と言う。そして「貴方の主観はどうでもいいんだよ。客観的事実を述べなさいよ」と続く。

そう。たしかに「思います」じゃないのだ。なぜなら報告というものは客観的事実であって,「思う」ことではないからだ。報告の中でわたしは自分の意見を言ったわけではない。「200ページ目までは今週中に出てくる」と印刷所のひとに確認しているのだから,それは多少の変動はあれども客観的事実だ。ならば主観を意味する「思います」と言うな,ということだ。内容が正しいのは当然であるが,伝達する言葉という形式にも気をつけなければならない。それは文章を扱う編集者という仕事からしても当然心がけるべきではあるのだが,しかし悲しいかななんとなく口をついて出てしまうこの言葉。その度にギロリと睨み付けられ「思いますじゃないんだよ」がくる。そこではじめて気づくことができた。形式にも大きな意味があったのだ。

 

特に学生の頃であるが,わたしは「在野」というものに対して強いあこがれがあった。政府お抱えの研究者よりも在野の研究者の方が格好良い。それは明治政府における大久保利通征韓論で下野した西郷隆盛の関係にも通じる部分があろう。昨今ブームと言われる南方熊楠も同じだ。だからそれを表す「在野精神」という言葉に興奮したし,そういう想いもあって在野精神が旺盛だと言われる早稲田大学に進学した。いまもその想いを完全に否定はしない。ただ当時のように神聖視はしていない。在野が絶対だとは思っていない。

 

政治でも,学生の頃はとにかく在野であるリベラル・左翼が正しいと思ってきた。政府はいつだって権力にズブズブで,保守・右翼はナショナリズムの塊で反知性主義の極みだと唾棄してきた。実際,リベラル・左翼はいつだって正しいことを言っているのだ。それが実現可能であるかどうかは別にして。それは現実を顧みていない理想論に過ぎないのだ,ということをここ数年で痛感し,やはり彼らを在野だからと言って絶対視するのはやめた。

 

さて,在野に対する憧れとは何だったのだろうか。それはきっと,組織や出世などの「形式」を重視せずにただ愚直に「内容」を追究せんとするその姿が,バンカラであり婆娑羅であり,格好良いと感じるゆえだったのだろう。国や組織の言ってることは格式張っててダセェ。おれはおれだ。みたいな理屈があったのだろう。城山三郎氏の著作で知った「粗にして野だが卑ではない」という格好良い言葉は,いまでもわたしの中で大きな意味をもっている。

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯 (文春文庫)

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯 (文春文庫)

 

 

だからいまとなって感じることは,形式なるものは必ずしも「うわべばっかりの格好つけ!」ではないのだということ。「形式」と「内容」は二項対立の対局に位置するものではなく,どちらが正しいとか間違っているとかではなくグラデーションを持っているのだということ。「これは悪だ!」「これは善だ!」と快刀乱麻を断つようにクリアカットに物事を断定することは簡単だが,それは思考放棄に等しいし,同じようなひとばかりが周りに集まってくることになる。その中でお山の大将になるのは気持ち良いのかもしれないが,わたしはそんなことには魅力を感じられない。結局の所,借り物ではなく自分の心で考え自分の言葉で語り伝えるしかないのだろう。もちろん最初は借り物でもいい。しかしそれをだんだん自家薬籠中の物にしていくことこそが肝要なのだ。何やら偉そうなことを書いているがもちろんわたしだって未熟者であり,そのためには日々インプットを欠かさないようにしなくては,と感じる今日此の頃であった。

 

ところでタイトルでへたくそなパロディをするのも難しい。引き出しが乏しいので。一応これをイメージしたのだが……。

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

 

 ハヤカワ文庫SFは黒の背景が格好良い。オタクは黒色が好きなので。まあそれは『バーナード嬢曰く。』で何度も言われてるけど。

バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)
 

 終わり。