冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

いつかセイロン島で青龍刀を

回の記事,別にセイロン島(スリランカのことである)に行った旅行記でも青龍刀を手にした体験記でもなんでもない。そう,「正論」について書いてみようと思ったのである。「正論」といっても,あの誰が読んでるのかわからない右寄り月刊誌のことではない。

正論2019年5月号

正論2019年5月号

 

 

まず,ここで改めて正論とは何か?ということを考えてみる。大辞林第三版によれば,辞書的な定義は以下の通りである。

せいろん【正論】

道理にかなった正しい議論・主張。

 

そのうえでこうも言える。正論が「正しかった」ことなどないのだと。正論とは理想論の別名なのだと。他者に押し付けられた正論は呪いでしか無いのだと。

 

正論というのは切れ味の鋭い刀である。中国の武器で「青龍刀(せいりゅうとう)」というものがあるが,わたしはそれになぞらえて正論を振りかざす人の鋭い刃を「正論刀(せいろんとう)」と呼んでいる。「龍」は「ロン」とも読めるのでちょうど収まりがいい(何が?)。そして言いたい。

人を正論刀で斬り付けて気持ちよくなるのをいますぐにやめろ,と。

kotobank.jp

 

例えば政治の世界でいえば,野党が言っていることはしばしば正論である。確かに沖縄から見れば米軍基地が撤退したほうが良いのだろう。確かに北方領土は4島返還されたほうが良いのだろう。確かに社会格差は是正されたほうが良いのだろう。確かに困ってる人に対して補助金が出たほうが良いのだろう。それは知ってる。たぶんみんな知ってる。

 

問題はいつだってその後だ。正論とは「じゃあ,具体的にどうやるの?/根拠はどこにあるの?」を欠いた話である。上述の例で言えば,「米国やロシアとの交渉ではどうやって譲歩を引き出すの?どの制度のどの部分をどのように変えれば格差は是正されるの?補助金の財源はどうやって捻出するの?」という「具体性/根拠」の部分なしに語られる話というのは,正論であり,暴力であり,理想論であり,空論であり,虚構であり,叶わぬ夢である。切れ味の良い正論刀を振りかざすのは,漫画で狂キャラがよく言う「こいつの切れ味を試させてくれよォ……(ここで刀を舐める)」と同レベルだ。

 

正論は相手の反論を許さない。「正しい」からだ。正論の背景には「世論」や「市民感情」というこれまた魑魅魍魎じみた邪悪なオーラが渦巻いている。それが反論を許させないのだ。正論刀という妖刀ムラマサのような正義の刀で相手を斬り付けるのは,さぞかし気持ちいいことだろう。

 

恐らく正論についての議論は,しばしば「対案病」として話題になる「反対するなら対案を出せ」まであと1mmくらいの近接した議論で,要するに「(正論を)唱えるのなら(それを実行するだけの)根拠を出せ」ということなのである。

togetter.com

togetter.com

 

しかし正論が理想論に過ぎないとしても,正論そのものを否定すべきだとは思わない。何かをなすためには理想は必要だからだ。そして理想は高邁なものであればあるほどよい。決して手が届かないけれども,それを目指すべきもの。それが理想なのだと思う。ただし,理想とは決して手が届かないものであり自分の胸に秘めておくものだと認識することが肝要だと考える。

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」

 

これは吉田松陰の言葉だという。見事なまでの三段論法ならぬ五段論法である。確かに何かを実行するために「こうありたい/こうあってほしい」という理想を抱くことはとても大事であるが,それは他者に押し付けられた瞬間に「呪い/スティグマに変換される。他者を正論刀で斬りつけ理想を押し付ける人は「理想を抱いて溺死しろ!」とアーチャーから叱られることになるだろう。そして問題は,正論刀を振りかざす人はそれが持つ正論力(せいろんりょく)を認識していないことが多いということだ。刀は力,なのだ。

dic.pixiv.net

 

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て,今までも何度か記事にしたことがあるが,私の前の会社の上司の話をしたい。彼はいつだってよく鍛錬された正論刀で斬りつけてきた。彼の入社以来20年以上の「経験」と休日出勤・長時間労働を厭わぬタフさの前に私は為す術なく蹂躙され,ストレスから自律神経が破壊され結局退職の憂き目を見ることとなった。それでも時折,彼が言う「これはこうするべきでしょ。なんで出来ないの?」という妖刀・正論刀の夢を見ることがある。

 

そしてそんな彼に対して,当時は私のことを思って言ってくれているんだとか休日にも出社して部下の仕事をチェックしてくれているんだとか考えていた。もちろんそういう面もないわけではなかっただろう。彼は不器用な人間で,私もまた不器用な人間だった。恐らくお互い,言いたいことを素直に伝えることもできなかった。こちらも至らぬ点が多々あったはずだ。しかしどんな事情があろうと今となっては断言できる,彼はただのモラハラ上司だったと。

 

一般的に,追い詰められた人の行動には2パターンあって,①相手に責任転嫁する②自分に責任を重転嫁(造語)するというものだと思う。私は①を良しとしなかった。あり方としてややパラノイアックであるが,他者に責任を押し付けるということが出来なかった。また言い訳することも良しとしなかったので,黙って責任を引き受け続けた。結果,ダメになってしまった。正論刀でズタズタに斬りつけられてしまった。

 

さてなぜこの話をするかと言えば,実は今日(4/20)は,私が前の会社を退職してからちょうど1年なのである。一周年記念日。

 

以上,【ご報告】だった。いま,私の周りでは正論刀を振りかざす人はいない。誰も呪いを振りまかない。そのおかげで毎日がとても有意義に過ごせている。そんなご報告とともに,正論刀の罪深さについて書いてみた。

 

正論刀の切れ味の良さに甘えるべきではない。それは貴方の力ではなく,借り物の論理の力に過ぎない。そしてそれは,すなわち自らを絶対的正義と思い込むことでもあり,「虎の威を借る狐」となってしまう。ここで言う「虎」は「正論」であり,「狐」は「貴方」だ。視野狭窄に陥ることなく,根拠に基づいて何かを主張する自身の力を涵養すべく,日々邁進していきたいと改めて思う。

 

終わり。