冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

令和の世に改めて『朝霧の巫女~平成稲生物怪録』を考える

て,令和の時代が始まったわけだけれども,あえて作品名に「平成」を冠する朝霧の巫女~平成稲生物怪録~』について再考してみたい。

 

これは中学生の頃に初めて手に取って以来,私を魅了してやまない作品だ。大学で法学部の講義以外に日本神話や民俗学の講義を取ったり山窩についての本を読んでみたりといった枠に留まらず,自身の人生観価値観にも多大な影響を間違えなく与え続けている。本記事の最後には舞台を巡礼した記録を書いているので,興味のある向きはそちらもご一読いただければ嬉しい。

 

◯以降,作品の核心に触れる記述がありますのでご注意ください

まず言いたい。この作品には全体を通じて強いアナロジー通奏低音として流れている。「スサノオノミコト」は「後醍醐天皇」に比定され,「天皇」は「ヒルコ」「ハヤサスラヒメ」に比定される。のっけからいきなり何を言っているんだと思われそうだが,そういう物語だ。

 

同時に,この作品は妄愛と舫(もやい)の物語でもある(ちょっと韻を踏んでいる)。相手を愛しすぎるゆえに傷つけてしまう妄愛。舟と舟とをつなぐ「舫」。これは本作で何度も出現する重要ワードであり,人と人との有機的つながりを指している。後述のこまさんというキャラクタはそのふたつの構成要素の象徴的な存在である。

 

なお朝霧の巫女』は序盤と中盤以降では別作品のようになっている。序盤は巫女さんと主人公との恋愛もののように見えるが,中盤以降はガチガチの民俗学や日本神話の要素を織り込んだハードな作風となる。 まず,『朝霧の巫女』のあらすじについてWikipediaを引用すると,このように書かれている。

主人公の少年・天津忠尋は、母親の置き手紙によって、いとこである稗田三姉妹が住む広島県三次市に引っ越して来る。到着早々、正体不明の化物に襲われるが、迎えに来ていた稗田三姉妹によって窮地を救われる。それから毎日、忠尋は化物に襲われる日々を過ごすことになり、やがてこの国の存亡に関わる戦いに巻き込まれていく。

 

確かに概要だけなぞるとこのような話ではあるが,しかしこのあらすじにはある重要なキャラクタが書かれていない。それは猫またであるこまというキャラクタである。

 

◯こまさんのこと

あやかしである彼女は「人の血を『家』として寄る辺とする猫」であり,彼女を支えるものは「体朽ちてなお離れる事のない『家』への執着」である。

dic.pixiv.net

 

こまさんは大変魅力的なキャラクタだ。彼女は主人公の祖父の妻,つまり祖母にあたる存在である。そして同時にあやかしであり,ひととは異なる時間を生きている。かつて最愛の息子(主人公の父)を誤って殺してしまい,孫(主人公)もその手から奪い去られた。すべての惨劇はこまさんの深すぎる妄愛ゆえに。誰かを守ろうとあがけばあがくほど,その爪は相手を引き裂いてしまう。

おまえの執着が子を殺す

子を思うならその呪われた手を遠ざけることだ

もはやおまえを顧みるものはどこにもいない

その妄愛が枯れ砂と帰すまで独り漂泊し続けるのだ(五巻,p.206)

家と子を失った

全て叶わず終わってしまった

いま一度やり直せればと幾千悔やんだことか

あゝ忠寿や

私はおまえをもう一度

もう二度三度幾千でも孕みたい(五巻,p.216)

 

彼女は自らの執着を自覚しており,それゆえに作品における彼女の”最期”は必然とも言えた。その際のセリフは大変印象的である。彼女は執着そのものであり,それを抱いたまま消えていく。その姿は涙なしには語れない。

わたしは自分の正体がわかっている

この執着は我が身そのもの わたしだけのもの 誰にも渡さない(八巻,p.67-68)

私はいつも取り残されてきた

せめておまえが死ぬより先に私は死にたい(四巻,p.119)

 

なお,この作品ではこまさんが述懐するかたちで,「あやかし」を以下のように描いている。彼女たちは人から生まれた存在でありながら人に恐れられる。まるでフランケンシュタインと彼が生み出した怪物のように。

 

彼女は執着を抱いたまま,しかし誰にも愛されず,寄る辺もなく彷徨うしかないのだ。

――私たちはね

人の心から生まれた怪物なんだ

茫漠とした心の影が像を結び魂が宿った鬼

人から生まれた怪物は人に黒く妄執し人は怪物を恐れ忌避する

人の傍らにありながら人と相容れない (五巻,p.132-133)

 こまさん

こんな家にのぼせて忠寿を犠牲にしないで

あやかしのあなたたちの寄る辺はもうどこにもないのよ(五巻,p.191)

おまえはとうにこの男の孤独の心から結びを解かれている

舫はどこにもつながれず舟は暗い海に投げ出されている(五巻,p.192) 

 

スサノオノミコトのこと

この作品で「悪役」と言い切ってしまうのは難しいが,強いて言うなら悪役はスサノオノミコトという神であり,主人公やこまさん,後述の天皇が率いる軍隊は彼と戦っている。

dic.nicovideo.jp

 

彼の目的は「生と死を分かつ境界である黄泉平坂の岩を取り除き冥府の母と結ばれ新しく国を作り直す」ことであり,端的に言えばマザコンである。そしてそのために必要な主人公の力を奪おうとしている。

 

日本神話の中でもスサノオノミコトは母であるイザナギノミコトが亡くなったときには母がいる冥府に行きたいと泣き叫ぶなど,実に人間臭さを感じさせる神である。そして,彼は純粋無垢で幼い神である。彼は人々の幸せを祈る「本当の神」であり,いつか人に訪れる死の別離や孤独の漂泊を恐れる。だから人の汚れた世を終わらせて,新しい世界を創ろうとする。世界を創り直そうとする。

現世に族生する穢き産屋を打ち砕き

清き焔を喪屋の柱として突き立てよ(八巻,p.198)

そうやって尊いものを台無しにして

生に群がり しがみつき何が満たされるというのか(九巻,p.96)

 

 

日本神話ではイザナギノミコトとイザナミノミコトがまぐわって国を生んだ(国生み神話)として知られている。そして本作のスサノオノミコト冥府の母とまぐわって国生みを再度行おうとしているのだ。やばい。

朕はいざ国の乳房をお迎え致し

現世幽世国平らげて

これに我らが常しえの家をうち建てん

天下の人民鳥獣草木に至るまで頭を伏してかしこみ音に聞け

天地を漂り遊び猛ぶる神の名をぞ素盞嗚と号すなり(五巻,p.231-234)

 

さて,本作ではスサノオノミコト後醍醐天皇に憑依していることになっている(唐突)。そこには前述のとおり,スサノオノミコト後醍醐天皇の強大なアナロジーが働いている。スサノオノミコトというのは前述のとおり日本神話の荒ぶる神であり,姉のアマテラスオオミカミから天上である高天原を追放されて地上で英雄的性質を身に着けていく貴種流離譚の典型的類型である。一方,後醍醐天皇も貴人でありながら倒幕を企て島流しにあい,後に脱出して建武の新政をなし南北朝時代を現出させた。朝霧の巫女』では両者を重ね合わせるという一種の”荒業”をやってのけている。

 

天皇のこと

スサノオノミコト後醍醐天皇に比定されているごとく,彼と敵対している天皇ヒルコに比定されている(そもそも天皇の名前は”日瑠子”である)。

 

スサノオノミコトが人の汚れた世を終わらせようとするのに対し,天皇は人の汚れた世を守ろうとする。その「汚れ」すべてに意味を見出し愛するのが天皇であり,純粋さゆえにそれを唾棄すべき汚物と吐き捨てるのがスサノオノミコトである。

日々の欲望や争いが醜くとも

苦い後悔や別離を繰り返すとも

その歴史がいかに滑稽で愚かに見えても

私はそれを愛しく思いたい

人々の些細な繰り返しの営みにはかけがえのない意味が

戦って守る価値があると信じたいのです(九巻,p.88-89)

 

そもそもヒルコとは古事記においてイザナギノミコトとイザナミノミコトが最初に生んだ子であり,未熟児であった。彼らは不吉な存在だとしてヒルコを船に乗せて流し,いなかったことにした。これは言い方が悪いが「ケガレ」や「罪」を身代わりとして舟に乗せて流すという流し雛と重なる。そして,さらに『朝霧の巫女』はもう一歩踏み込む。

外部化された生け贄は常に”共同体”が安定するために必要とされる

形は違えどいるではないか

贄として生け簀に飼われ祭られるマレビトの一族(六巻,p.101)

 

そして生け贄として舟に乗せられ流される。「ケガレ」や「罪」を背負わされて。

・・・・・・それが『朝霧の巫女』の世界における「天皇」である。

舟の守人であり穢れを引き受ける流し雛ハヤサスラヒメ

わたしたち異人の一族はこの国の柱であり世界を清廉に保つための贄である

雛人形はその日が来るまで

きれいに飾られ大切に扱われ敬られる(八巻,p.100)

 

 私はこの世界の「天皇」と現実の天皇にすらアナロジーを感じてしまうのだが,それは言いすぎだろうか。

 

日本神話で身代わりとしてケガレを背負い流された「ヒルコ」と,自ら鋳造した舟で流されることで神が国生みし人が繁栄した現世のケガレを引き受ける「天皇」は,これまた強大なアナロジーで結び付けられる。さらに,天皇「ハヤサスラヒメ」にも比定されている。ハヤサスラヒメは大祓詞のなかに出てくる神であり,流れ着いたケガレや罪を受け入れる神なのだそうだ。そしてその「罪」はどんなものでも受け入れる……。それがヒトのものであっても,神のものであっても。というのが本作のモチーフになっている。

 

なお『朝霧の巫女』における天皇は言うまでもなく美少女である。

yaoyoro.net

 

さて,南北朝時代北朝南朝に分裂した天皇家だが,後醍醐天皇に端を発する南朝は滅びたとされてきた。しかし昭和に入り南朝天皇を主張した「天皇」が存在した。それが熊沢天皇である。熊沢氏は昭和天皇の退位を求める裁判を起こしたことで法学部の人間には若干の知名度があると思われる。

kotobank.jp

朝霧の巫女』には熊沢菊理(くまざわくくり)という女子高生がおり,スサノオノミコトは現代では彼女を依り代にして降臨している。つまり南朝天皇が,女子高生の熊沢天皇。。。そして北朝の日瑠子天皇もおそらく女子高生くらいの年齢と思われる。これは女子高生天皇同士の,国をかけた現代の南北朝戦争なのだ。なんだそれ。

 

※これは今日知ったことだが,菊理姫(くくりひめ)」という神が存在するのだそうだ。名前の通り縁を「くくる」,つまり縁結びの神でありイザナギノミコトとイザナミノミコトの夫婦喧嘩を取り持つシーンが有るのだそうだ。ますます作者である宇河先生の見識の深さに驚くばかりだ。

shinto-bukkyo.net

 

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(以下は『朝霧の巫女』の聖地巡礼をした旅行記である)

 

2018年4月,私は退職して旅に出ていた。西日本をぶらぶらしていたのだが,その途中で三次市に立ち寄った。写真の鳥居は,巫女三姉妹が暮らす稲生神社のモデルとなった大歳神社であり,そこで売られていた霊験あらたかな巫女三姉妹のお守りである。

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そして何を隠そう,私が泊まったのは朝霧の巫女~平成稲生物怪録~』の作者・宇河弘樹先生の奥様が経営されているお宿なのであった。やば!!!

himikokura.net

本当に素敵な宿で,ダイニングにはさまざまな画集が置いてあり,良い雰囲気だった。奥様お手製のごはんもとても美味しかった。そして宇河先生ご本人も登場!!!

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当時のツイートを振り返ってみるとその興奮具合がよく伝わってくる。目の前の宇河先生にこまさんの深すぎる盲愛が大好きだと述べ,人ならざるこまさんの弱さが愛おしいと力説し,持参した単行本にこまさんのイラストを描いていただいたのだった……。一生家宝にします。あのときはありがとうございました。絶対にまた行きます。

 

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朝霧の巫女』には「稗田倉子」「稗田柚子」「稗田珠」という巫女三姉妹が出てくるのだが,名前には元ネタがある。民俗学にちょっとでも関心がある方なら「稗田」の姓にはピンとくるだろうが,ここでは下の名前の方が重要である。

 

それは三次銘菓『泡雪』の「小倉」「柚子」「玉子」であり,写真のお菓子である。宇河先生があとがきで「激甘!」と書いているように,本当に激甘だった。お茶が欲しくなるお菓子なのでお茶請けにはぴったりかもしれない。

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先日テレビを見ていたら,この作品の舞台となる三次(みよし)市もののけミュージアムがオープンしたという。地域活性化の一環とのことだが,またぜひ訪れてみたい。

www.jiji.com

 

 あ,『朝霧の巫女』本当におすすめの作品なので,マジで読んで。こんなブログ記事なんかよりも絶対に『朝霧の巫女』を読んでくれよな!!!

 

終わり。