冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

灰色の羽

の前に灰色の羽が散らばっていた。すぐ隣の電信柱の足元では,それが風に吹かれて吹き溜まっていた。

なんだろう,と思いふと目を上げると道の真ん中でハトが死んでいた。車にはねられてしまったのだろうか,仰向けになって死んでいた。

私はどうすればいいのかわからなかったが,なぜか涙が出そうになったので手を合わせて立ち去った。周りの人も気づいたようだが,すぐに目を背け,足を止める人は誰もいなかった。

帰りに通ってみるともうハトは跡形もなくなっていた。どうやら動物の死体を見たら役所に連絡するのが正しいらしいので,誰かが連絡したのだろう。しかし灰色の羽だけはまだ歩道に散らばっていた。

たったそれだけの出来事だが,ひどく刺さった棘のように胸が痛んだ。

 

数日前,新宿の料亭に置いてある水槽でフグがひっくり返って死んでいた。その水槽は道路に面していたので,歩道からその死んだフグは丸見えになっていた。10匹くらいのスイスイ泳ぐフグに混じって,1匹だけが完全に静止し死んでいた。もちろん足を止める人は誰もいなかった。私もどうすればいいのかわからず,立ち去った。

 

し意識して考えてみれば,いまこの記事を書いているあいだにもたくさんの生命が失われてるという当たり前の事実に思い至る。2015年の日経記事によれば,1秒間に4.5人が生まれ1.8人が亡くなっているのだそうだ。

www.nikkei.com

 

そういえば,日本神話ではイザナギノミコトとイザナミノミコトが言い争ったところから生と死のやり取りは始まったとされている。イザナミノミコトは黄泉の国で「生者を一日1,000人を縊り殺してやる」と言い,イザナギノミコトは「ならば私は一日1,500の産屋を建てる」と応じた。そこから,人は一日500人ずつ増えることになったとされている。

 

実際はそれを遥か上回るペースで人は増えているのだが,そのような話はスケールが大きすぎて現実味がない。私たちは目の前の死をそんな簡単に処理することは出来ない。人の生き死には統計ではない。たとえそれが動物だろうとなんであろうと,一つの死を前にして私たちはどうすればいいのかわからず戸惑う。

 

い先日,韓国で日本人女性が暴行を受けるという事件があった。その際,周りにいた人はみな見て見ぬ振りを決め込んだという衝撃的な報道がなされていた。

news.livedoor.com

 

これを見て,数年前の中国で「善人法」なる規定を盛り込む動きがあったことを思い出した。中国では目の前で人が轢かれていても助けないで見て見ぬ振りをするということが多くあるようだ。それはトラブルに巻き込まれるのを防ぐためだとのことだが,「善人法」では助けた人が不利益を負わないようにするのだそうだ。法律で決めなければ人助けをしない(できない)というのも寂しいものだが,日本も多かれ少なかれそういう部分はあるだろう。

www.asahi.com

 

様々な情報が駆け巡る忙しい現代社会のなかで,人はいろいろな感性を鈍麻させていく。そのなかで死に対する感性もまた鈍っていくのだろう。それは想像力と置き換えてもいい。たとえば飛び込み自殺による人身事故で電車が遅延したとき,イライラしてしまうのは仕方ない。しかし「ふざけんなよ。迷惑かけないで死ねよ」とか「知らねーよ。勝手に死ねよ」などという発言を見かけると,とても悲しくなる。飛び込んだ人がどういう人生を送ってきたのか,もちろん知る由はないのだが,「迷惑かけないで死ねよ」「勝手に死ねよ」の一言で切り捨てられてしまう人生などあるわけがない。さらに視点を広げれば,今この瞬間にだって世界中でたくさんの人達が殺されている。私の卑小な想像力では世界までは到底想像が及ばないが,それらを悼む心というのは常に持っておきたい。

 

そんなの知らねーよ,そんなの他人事だ,などと割り切ってしまうのは簡単だ。生と死は究極の他人事なのだから。しかし私は死に対して「見て見ぬ振り」をするのではなく常に敏感でありたいと思うのだ。

 

終わり。