冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

写真

はい、写真。

タイトル通りです。

わたしは特に写真についての特殊技法を知っているわけでも実践しているわけでもないですが、親のお下がりで小さい頃からいっぱしに立派な一眼レフを持っていました。

しかし、その一眼レフに対しては正直メンドクセーとか思ってました。

その頃も携帯電話には性能は悪くともカメラが付いていたので、わざわざデカいカメラを取り回すのは幼い時分には手間だったのです。

しかも親も構図が良くないとかカメラはこう構えろとかうるさいので、あまりカメラを積極的に持って行こうとはしませんでした。

まあそんなこんなで自分と写真、カメラとは腐れ縁的に付き合いが長いのです。技法とかは全くわかりませんが。

まあ前置きはその辺りにして、なんでこの話をしようと思ったかといえば、みんな写真というものを真面目に考えすぎでは?もっとシンプルに考えればよいのでは?と思ったからです。

まず念頭に置いておきたいのは写真、カメラのあり方がここ15年ほどで大きく変わったということです。

まず第一に、デジカメの普及で写真はデータで持ってさえいればよいものになり、むしろ現像する人の方が少数派になったということ。つまり、撮影された写真がデータとしてのみ保存され、L判などで現像されないということ。

これは革命的な変化でしょう。これまでは現像して初めて確認出来た写真が、いまや撮影してすぐに確認し、気に入らなければ削除出来る。36枚撮りやら24枚撮りのフィルムではなく、SDカードや本体の容量の許す限り何枚でも撮影できる。

これは当然、写真1枚あたりの”価値”を大きく変えてしまいます。

かつて写真1枚あたりの価値は1/36か1/24でしたが、いまでは1/∞ということです。

物の価値の下落、デフレは写真にも及んでいたということです。


そして第二に、スマートフォンの普及でカメラが特別なものではなくなったこと。わたしが一眼レフを初めて貰った頃、まだ写ルンですという簡易カメラがかなり出回っていました。また、携帯電話のカメラもまだデジカメと比べられるものではありませんでした。

いまではスマートフォンのカメラである程度のものは撮れます。勿論、一眼レフほど高性能ではありませんが、下手なコンパクトデジカメを持ち歩くよりは利便性も高く、総合評価は高いかもしれません。

スマートフォンのカメラが高性能になるに従って、「SNS映えする写真」という概念が生まれました。

それに伴って、どこかに行くことが目的ではなく、行った場所で撮った写真をSNSにアップロードする(そしていいねをもらえる)ことが目的となるという現象も生まれてきました。

以上のように、?写真1枚あたりの価値が大きく下落した?写真はいいね をもらうための手段となってきた ということがあるかと思います。

しかし一方で、相変わらず芸術写真というものはありますし、一眼レフで撮られた美しい写真というものもたくさんあります。最近ではそこまで高価でない一眼レフも多く出ており、一眼レフを持つ大学生も増えてきた印象があります。カメラの性能は値段に比例しますが、一眼レフであればある程度の水準は満たしているので、誰が使ってもいい感じの写真が撮れます。自分ではうまい写真が撮れた!結構センスがあるのでは?と思っても、それはみんなそういう風に撮れる高性能なカメラというだけなのです。

ここで写真やカメラについて、価値の二分化が生じます。

1枚あたりの価値が1/∞であるのは同じでも、めちゃくちゃ価値が低いのだからテキトーに撮ればいいやという人と、何枚でも撮れるのだからこそ最高の1枚をチョイスするために何百枚も撮る人に分かれます。

テキトーに撮られた写真というのはある程度わかります。悪く言えば心がこもっていないのです。

スマートフォンで撮られた写真にありがちですが、構図が悪い(被写体の一部が見切れている、明るさの調整が出来ずに白飛びしている、斜めになっているなど)もの。

あー記録用にテキトーに撮ったな、というのがすぐに分かります。同じ価値が1/∞であっても、何度でもやり直して撮られた最高の1枚とは段違いの写真です。

ただ、それは当り前のことです。写真が持つ意味合いが違うのですから。記録用の写真と芸術用の写真。真逆な性格なふたつ。前者にクリエイティビティを求めることがまず間違いなのです。

そこをふまえないと、ごちゃごちゃするのです。そもそも”写真の定義”が両者では違うのです。

SNS映えする写真」は品評会に出展する写真ではないのです。所詮、SNSの仲間うちでワイワイとはしゃぐ用の写真なのです。「SNS映え」という言葉の響きはともかくとして。

だから、写真なんてものはとてもシンプルなものだと思います。深く考えるものでもない。

わたし自身の写真に対しての考えはシンプルです。わたしはどこに行ってもかなりの枚数の写真を撮ります。そしてなんでも撮ります。それは、写真は記録用だと思っているからです。何を食べたか、どこに行ったか、何をしたか。

せっかく記録に残すのだから、綺麗に残したい。わたしにとっての写真はそれ以上でもそれ以下でもないです。

なので「写真うまいね!」と言われるのが不思議です。前述した通り、同じカメラを使えば誰でも同じように撮れます。勿論三脚とかレリーズとかの違いはありますが、それはあくまでカメラの周辺機器というだけのことで、無ければ買えばいいだけのことです。それだけいまのカメラは高性能です。

プロの写真は確かにすごく綺麗ですが、それは段違いに値段の高いプロ用のカメラを使っているだけの話です。

写真なんてものに深い意味を与えることはわたしはしません。あくまで記録用。

こんな感じで終わります。