冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

いつも心に喫茶店を

回のタイトル,「いつも心に喫茶店を」。ちなみにここで言う「喫茶店」には,「静かな渋いマスターがいて洒落たジャズなんか掛かっている美味い珈琲を飲ませる店,決してクソ小洒落たPCのカタカタ音が響くカフェなどではない店」とルビをふっている。

 

のっけから少しだけ本題から逸れるのだが,わたしはこういうルビ芸とでもいう言葉遊びが好きだ。古くから知られているところでは『疾風伝説 特攻の拓なんかがある。そもそもこれ「しっぷうでんせつ とっこうのたく」と読みたくなるところだが,「かぜでんせつ ぶっこみのたく」であるところからしてすでに伝説である。かの有名な名台詞「”不運”と”踊”っちまったんだよ・・・・」を始めて読んだ時は衝撃的だった。

 

他にルビ芸でパッと思い浮かぶのは空の境界で,恐らくファン100人に聞いたら80人くらいが一番好き!と答えるのではないかと思っている黒桐幹也の以下の台詞。

「式。君をーー一生、許(はな)さない」

これを初めてみた時は鳥肌が立った。勿論映画も素晴らしかったが,本文と全く異なるルビをふることでアンビバレントな情感をもたらすというのは文字でしか情報を伝達できない活字ならではの表現技法だ。俳句や短歌が限られた文字数ゆえに無限の世界が広がるのと同様,映像も音も無い活字だからこそ世界が広がるのだ。

空の境界(上) (講談社文庫)

空の境界(上) (講談社文庫)

 

 

あともう一個だけ,個人的にルビ芸の概念を覆してくれた作品を紹介する。以前もこのブログで取り上げたことのある円城塔『文字渦』。このなかの『誤字』という一編は細かい紹介は省くので,ぜひとも読んでルビ半端ない!と仰天してほしい。こういうのは説明するだけ野暮というものだ。

文字渦

文字渦

 

 

てついつい楽しくなってしまい余計な話が長くなってしまったが,ようやく本題に戻る。 

 

先日,喫茶店での出来事である。私が本を読みながら珈琲を飲んでいると,隣りにいた老夫婦がタバコを燻らせながらお互いの馴れ初めエピソードをし始めたのだった。タバコとの。その話が印象的だったので以下に書いてみる。

「おまえいつから吸ってんだっけ」

「あたしは高校からだよ」

「なんだおせえじゃねえか,俺は中学だったぞ。オヤジのくすねてな。缶ピー(缶入りのピース)なんてかっこつけて吸ってたけど学校に持ってくの大変でさ」

「おそいったって法律じゃ駄目なんだから仕方ないじゃない」

「おまえそれ言ったら高校生だって駄目だろ」

「あそっか(一同笑い)」

 

なんていうか,いい話を聞かせてもらったなと思った。 当人が理解しているように勿論法律的に言ったらアレなのは間違いないが,それはそれ,これはこれである。とやかく言うまい。

 

そしてその流れで,ふたりは茶店を開きたかったという話をし始めた。

「あたし喫茶店開きたかったなー」

「やるんなら珈琲しか出さない店だな」

「そうそう。1階がお店で2階にあたしたちが住んでてさ」

「洒落たジャズなんか流しちゃってさ」

 

ああ,人はどんなに歳を取っても,いつでも喫茶店を開きたいのだなと思った。大げさかもしれないが,人の心の中には喫茶店があるのだ。そして現実に疲れた時にはいつでもその喫茶店を開店したくなるのだ。かくいう私も大学生の頃ぼんやりと「喫茶店開きたいなー」と思っていた。そして周りにも「喫茶店開きたいなー」と言う人間は何人もいた。「こだわりの一杯出してー」「マホガニーを削り出した温かみのある机設えてー」「澁澤龍彦の本並べてー」「チャーリー・パーカーのレコード掛けてー」「パウル・クレーの絵立て掛けてー」「ジリリリって鳴る黒電話置きてー」といった具合にその人の”好き”を喫茶店に投影し,すべてを兼ね備えた「理想の喫茶店を開店したくなるのだ。言ってしまえば渋いディテールにこだわりまくった現実版・どうぶつの森である。小さい子が「お花屋さんになりたい」って言うのと少し似ているのかもしれない。「お花屋さん」が「喫茶店」に置き換わったというのは,歳を取って感性が渋くなったということだろうか。

 

そして私の周りで「喫茶店開きたいなー」と言っていた人は,私含め誰も喫茶店でバイトはしなかった。当たり前だ。私たちはあくまで「心の中の喫茶店を開店したいだけなのだから。そしてだいたいその喫茶店は「客は一日数人しか来ない感じでー」とか「自分はカウンター奥に座ってニコニコしている感じでー」とか「開店は10時半頃でー」とか自分が楽になるような留保が付いている。要は朝早く起きたくないし楽して働きたいというわけだ。それでいいのだ,だってこれは「心の中の喫茶店」,無い喫茶店なのだ。なんで心の中でまで働かにゃならんのだ。

 

この老夫婦も本気で喫茶店を開店しようなんて思っていないだろう。しかしきっと,心の中ではすでに理想の喫茶店が開店しており,洒落たジャズをBGMに紫煙を燻らせながら珈琲を淹れているのだろう。改めていい話を聞かせてもらったなと思いながら,私はテーブル上の伝票を掴み店をあとにしたのだった。

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終わり。



 

「ご注文はうさぎですか?」「はい」

イトルのまんまなのだが,先日うさぎをご注文した。

……レストランで

有り体に言えば,うさぎを食べた。まあ出落ちなのだが……。

 

先週,大学のサークルの卒業生とフレンチレストランに行った。前菜やアヒージョやペンネなんかを注文し,他なんか頼もうかとメニューを見るとなにやら「フライドウサギ」と書いてある。特に目玉メニューというふうでもなく,淡々と「フライドウサギ」。しかもよく見ると「フライド ウサギ」という感じに半角空いている。なんだこれ。一瞬脳の理解が追いつかずフリーズする。「フライド」まで見たあたりでそこに続く言葉は「ポテト」「チキン」あたりだろう,と高をくくっていた脳をあっさりと裏切り,そこにあった言葉はまさかの「ウサギ」。困惑気味に店員に「この『フライドウサギ』ってなんですか?」と聞くと嬉しそうに「フライしたウサギですね」と返される。絶対に食べてみたくなり注文する。

 

美味しんぼ』でウサギ肉のゼリー寄せとかそういう料理を見たことはあったが,いままでウサギを食べたことはなかった。ウサギはよく「鶏肉っぽい」と評されるが,いったいどうなのだろう。待つ。

 

前菜やアヒージョやペンネは普通に美味しい。これはウサギも美味しいだろうと期待が持てる。「おまたせしました~」と運ばれてきたそれは,ぱっと見フライドチキンとか白身魚のフライトかそういう代物だ。

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先輩「これ脚っぽいけど胴体とかどうしてるんだろ」

わたし「胴体は胴体で流通してるんですよきっと」

という謎な会話がありつつウサギをナイフとフォークで切り分ける。骨が太いので絶妙に切り分けにくい。お味の方は……

「鶏肉っぽいわ」で全会一致。

で,言ってから思った。「すぐ鶏肉っぽいって言っちゃうの,めっちゃダサい」

カエルを食っちゃあ鶏肉っぽい,ワニを食っちゃあ鶏肉っぽい,ウサギを食っちゃあ鶏肉っぽい……。あっさりしてたら全部鶏肉っぽいって評価じゃねーか!と自分の感性の乏しさが悲しくなった。もっと美味しんぼみたいに「馥郁たる香りが口いっぱいに広がって」とか「シャッキリポンと舌の上で踊る」とか言いたいのに,口をついて出てくるのは「鶏肉っぽいわ」。泣けてくる。

 

フライドウサギを食べていると先輩が学校でウサギを飼育していた話をし始める。こわいよ。わたしは小学生の頃ウサギの飼育委員で,すでに「シロ」という名前があったにもかかわらず頑なに「うさこ」と呼び続けたことをひとり思い出し,人んちのペットに勝手に名前つけるおばさんみたいだなと思いふふっとなっていた。

 

ちなみにこのお店,店員のノリがいい。でかいワイングラスを見てわたしが「ゆうじろうじゃん!!」とはしゃいでいた(26歳なのにでかいワイングラスではしゃいでいる……)のをスッと「ゆうたろうですよ。」と諌め,友人の結婚式の余興ででかいワイングラスを持ったらクソ重かったし,友人にプレゼントしたけど絶対邪魔だろうなあと思っているという謎エピソードを聞かせてくれた。

 

あ,タイトルにしてるけど『ごちうさ』って見たことないんだよね。なんかいまさら見るのもなみたいな感じになっちゃって。

終わり。

多読をつぶやくな。精読を誇れ。

当にタイトルのまんまなのだが,ここ数年とにかく「多読って意味なくね?」と思うようになった。多読で得られるものが少ないからだ。絶対に時間をかけて1冊を精読し,振り返ったほうが良い。

 

大学生の頃は,とにかく多読!本は文化!みたいなことばかり考えていた。早稲田の周りには古本屋がいっぱいあって,私は自転車通学だったので講義が終わるとチリンチリンと自転車を走らせ古本を買い漁って回った。かごに入り切らなくなるくらい買うこともよくあったし,高田馬場で飲み会だった時もやっぱり駅近くのBOOKOFFで古本を買い漁っていた(だいたい飲み会には遅刻した)。そしてどっちゃりと買い込まれた本は当然本棚に入り切らず,仕方なしに無尽蔵に床に積まれる。このままだと積ん読になってしまう。積ん読にしたくない一心であせあせと読む。だいたい本を買っているときの自分というのは,本を読んでいるときの自分よりずっと知的好奇心旺盛で賢く小難しい本を買ってくるので,いざ読み始めると小難しくてしんどくなってくる。どうやら本を買ったときの自分はローマ帝国の滅亡やら日本書紀について興味があったようだが,その興味は帰宅すると同時に雲散霧消してしまっている。しんどい思いをしながら一冊読んでは次,一冊読んでは次。そして気がつくと,またどっちゃりと本を買い込んでいる。まだ前回買った本が残っているのに……!「本は買いたいが,積ん読は作りたくない。仕方なしに多読する。そしてまた本を買ってしまう」……これが私が大学生の頃にやってしまっていた地獄の多読である。これはとにかく自転車操業のようで,消耗する一方なのだ。しかも振り返ることなく半ば強迫観念的に次の本に手をのばすので,読んだ内容はあんまり覚えていないことが多い。まさに昔Twitterではやった悪循環のコラだ。

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少し積ん読についても触れたい。これは収集癖のあるひとには痛いほどよく分かると思うのだけど,本というものは割と買って入手した瞬間に「あっ……」と満足してしまうのだ。所有欲が満たされてしまう。食事では決してそういうことはない。「カレーライスください」と注文しただけで「あっ……」と満足してしまうことなんかあり得ないだろう。食わせろ!となるに決っている。言うまでもないことだが,レストランの食事は「注文する(買う)⇒食べる」がほぼシームレスであるのに対し,本は「買う⇒読む」の間に「入手する」というステップがある。そして入手しただけで満足してしまうことの何と多いことか。そして積ん読が生まれる。そのとき本は知識の束ではなく,景観のオブジェとなる。

 

積ん読についてBBCで興味深い記事を目にしたので以下に掲載する。積ん読BBCで特集が組まれるというのはなかなか面白い。

www.bbc.com

「『Tsundoku』は、読みもしない本のコレクションを集めてしまうことを意味する日本の言葉。『Steamdoku(スチームドク)』は、あなたのスチームのコレクションのこと」

ゲームのプラットフォームとしてSteamは大変便利であるが,購入したゲームのパッケージが手元にないだけ「積み」やすい。積ん読という言葉は大変汎用性が高い。

 

そして収集意欲を満たす以外の積ん読の効果としては,周囲に頭が良さそうな本がいっぱいあったら自分も頭が良くなった気がする!嬉しい!というものだろう。案外それはプラセボ効果的には馬鹿にできないのかもしれないが,もちろん本の本来の用途ではない。数年前流行っていたbook cafeというのは,おおよそそういった効果があると思われる。あそこでMacBookを広げて何らかの作業をしているひとはきっと作業効率が高いのだろう(他意はないです)。少なくとも私はbook cafeに並んでいる本がオブジェ以外の効用をもたらしている様子をほとんど見たことがない。店によっては読まれることを想定していない位置に本が陳列されていることもある。

 

多読について話を戻すと,いっぱい本を買ってどんどん読もう!という意気込みは得てして的外れだということ。なぜならそれは本を読んで知識を得ることではなく読むこと自体が目的になって,手段と目的が入れ替わってしまっているからだ。もちろん俺はいっぱい読めるぜ!というひとはそれでいいが,本は自分のペースでしっかり読んで,振り返り,知識の束として役立てないとお金も時間も勿体無い気がする。そしてまるで消費の対象のようにバシバシ読んでは本に対しても失礼な気がする。私自身,最近は精読を心がけている。面白いセンテンスなどを見つけたら付箋を貼ったり,読書メーターなどに感想をまとめたりして1冊1冊の本を大事に読むようにしている。Kindleだったらマーカーを付したり,書名を入れてスクリーンショットを撮って保存している。「あのフレーズどこで見たんだっけ?思い出せない!」というモヤモヤを無くすために,まとめたりマーカーを引いたり付箋を貼ったりと「気づきの端緒」を忍ばせるようにしている。100冊の多読より1冊の精読。いまさらながらそんな当たり前のことに気がついた。遅すぎるくらいかもしれないが,人生に遅すぎるということはないというし。

 

ところでブログのタイトルだが,COMICLO 2011年11月号キャッチコピー「孤独をつぶやくな。沈黙を誇れ。」から。多くの人が読んだことはなくても何となく知っているであろうCOMICLO。たかみち先生の美麗なイラストとオシャレなキャッチコピーにもかかわらず,書影の左上にはでっかく「成年向け雑誌」の文字が。取扱い注意。

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はてなブログではAmazonのリンクを貼れて便利なのだが,現在AmazonではCOMICLOの取扱いを行っていない(!)ため,リンク貼り付けが出来ない。当時割と騒動になったのを憶えている。

www.excite.co.jp

これはTwitterで何度か話していることなのだが,地元に老夫婦が経営している書店がある。基本的に成年向け雑誌は置いていないのだが,COMICLOだけはなぜかドン!と陳列されている。しかも少年ジャンプとか少年サンデーとかに混ざって,普通にマガジンラックに棚差しされている。……少年にどんな性癖植え付ける気だ。

真面目な話,店主が成年向け雑誌だと気づいていない説が私の中では有力だ。いや普通そんなことないと思うんだけど,店主の老夫婦の柔和な表情を見ると素でやってるとしか思えない。……いやでも,もしかしたら実際は「公園とか河川敷とか見つかりやすい場所にアレな趣向の成年向け雑誌を捨てておいて拾った少年に怪しい性癖を植え付けるやばいやつ」と同じサイコな感じなのかもしれない。「なんでCOMICLOあるんですか?」といつか聞いてみたいと思って早10年近く経ってしまった。

 

終わり。

The Life Must Go On

日はユニクロ新春フェアに行っていた。半額のカシミヤセーターとかフリースを買うためだ。これが高校生の頃だったら気取ってPARCOとかLUMINEのUNITED ARROWSとかに行っていた(うぜ~)と思うが,もうそういう風に自分を着飾ることはやめてしまった。二重の意味で。求めているのは,ただただあったかいスウェットやカシミヤセーターなどの「生活のための服」である。1着2,000円の服で十分生活はできる。そして生活はつづく……。ていうか今更だけど「生活」って言葉すごい。「生きる」「活きる」って。いきいきしすぎ。

 

さて,今回「分かる」について書きたい。

借金玉氏というツイッター有名人の著作発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』を読んだ(Kindle Unlimitedに入っていた)。

ちなみに私は仕事術的なノウハウ本はクソほども役に立たないと思っているので普段はそういうのを全く読まないが,借金玉氏をツイッター上で知っているので読んでみたわけである(誰に対してなのか分からない言い訳)。借金玉氏はツイッター上で割と辺り構わずかみつく人だな~とよく傍観しているのだが,氏は実業家だった側面もあると知って「ツイッター奥深ぇ……」となった。著作の中で「分かる」について興味深い箇所があったので,以下に掲載する。小見出し「「わかるよ」は適当でいい」に注目していただきたい。

 

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 「なるほどなあ」と思った。私にとって「分かる」というのはすごく重大で,軽々しく口に出せる言葉ではなかった。だって貴方のことなんか何ひとつ「分からない」し。貴方の抱えている事情を知らない。貴方の思考のバックボーンを知らない。貴方の本当に考えていることを知らない……。たくさんの「知らない」が積み重なって,それは強固な「分からない」になっていく。分かりもしないことを分かる,と言ってしまうのは不誠実な態度だとずっと思ってきた。

 

でも,その態度自体は誠実だったかもしれないけれども,間違っていた。文中にもある通り,「その「誠実さ」は「誰も幸せにしない誠実さ」」でしかなかった。さらに言えば,「私は誠実です!」という自己正当化のための薄汚れた誠実だった。

 

たった一言,「分かる」と言ってあげること。誠実とか不誠実とかそういう役に立たない話をごたごたするのではなく,適当すぎない程度に適当に相手に共感を示すこと。今年は他者に共感する一年にもしたいと思う。

 

タイトルは星野源さんの傑作エッセー『そして生活はつづく』とQueenの楽曲「The Show Must Go On」から。星野源さんのエッセーは音楽活動にとどまらない表現者として,本当に読んでいて心地よい。

そして生活はつづく (文春文庫)

そして生活はつづく (文春文庫)

 

 ちなみに立川シネマシティでボヘミアン・ラプソディ』の発声上映やるらしいので,また観に行ってくる予定。気になる方はぜひ。

info.cinemacity.co.jp

終わり。

 

 

 

 

2019年はどこから来てどこへ行くのか

単に今年の抱負と去年の振り返りでも書く。

 

◯ブログについて

もともとブログ自体はJUGEMブログで2016年から不定期に更新していたが,UIが良くなかったりスマホで見ると分割されて見づらかったりと何かと不自由が多かったので2018年9月からはてなブログに移行した。ふと昔の記事を読み返してみると「うわ何言ってんだこいつ……」と自己を客観視出来るのは,いくらかは成長したってことなのだろうか。はてなブログに移行してからは週に一回くらいのペースで文章の練習として継続しているので,2019年にもそのようにしていきたい。意外と読んでる人がいるっぽくて(勿論めちゃくちゃ嬉しいのだが)会ったときにちらほら「あれ読んだよ」と言われるので,羞恥心と戦う必要はある。

 

◯同人誌について

最近iPad Proを買って液タブ代わりとして使っているので,年内には何らかのジャンルで同人誌を出してイベントに参加したい。見せられるようなレベルになったら,描いた絵もたまにこのブログに掲載するかもしれない。いまはまだ「見せられないよ!」って感じ。ハヤテのごとく!でみたやつね。

 

QOLの向上について

今年の5月から一人暮らしを始めて,一応自炊・掃除・洗濯などはきちんとしている(Twitterをフォローしている方はよくご存知だろう)。しかし悲しいかな,料理と言っても元来ズボラなので適当に炒めただけ!とか適当に煮込んだだけ!みたいなのばっかりである。もっと繊細な料理を作りたい。食器などの家具にもこだわって,生きるだけじゃなくてQOLを向上させるような,丁寧な生活を心がけるようにする。

 

◯インプットについて

色々な作品をインプットしたいが,「月◯冊!」とか決めるとそれが義務になって楽しめないので気楽にやっていく。大学生の頃は完全に義務化してしまっていて,BOOKOFFで一生読みもしない難しい本をいっぱい買っては悦に入ったり多読を誇ったりしていたが,もうそういう時期はとっくに過ぎた

 

なお2018年に読んだ本で一番面白かったのは新井紀子氏の『AI vs.教科書が読めない子どもたち』だった。タイトル通り,教科書という最も基本的なテクストさえ子どもたちが誤読している現状を取り上げ,なおかつ現在進行系のアクティブ・ラーニングについて「読解力も身に着けずにアクティブ・ラーニングができるのか?」という観点で切り込んでおり興味深い。今後の社会を支えていくのが彼ら彼女らである以上,それは決して他人事ではないからだ。そしてわたしだって本当にテクストを理解できているのか,自身をもって頷くことはできない。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち
 

 小説では円城塔氏の『文字渦』だった。作者の文字に対する偏愛が伝わってくる「遊び」が大変魅力的かつ実験的な作品で,このなかでは「活字」という言葉通り文字が「活きて」いる。文字は独自の哲学をもって立ち現れて,飛び跳ねる。油断していると文字の奔流に流されてしまうような,気骨あふれるハードな作品であった。

文字渦

文字渦

 

 映画ではカメラを止めるな!だった。正直2018年は映画館に行きまくった1年で,必然的に良すぎる映画も多かった。万引き家族』『ペンギン・ハイウェイ』『リズと青い鳥』『ボヘミアン・ラプソディどれもとても良かったが,個人的にメタ作品が大好物なので『カメラを止めるな!』がトップだった。三谷幸喜氏の『ショウ・マスト・ゴー・オン 幕をおろすな』や『ラヂオの時間』,演劇ならシベリア少女鉄道が好きな人は完全にハマる作品だと思う。

 ゲームではフルボイス版が2018年に発売された素晴らしき日々だった。学生の頃からやろうやろうと思っていたが,ついにプレイすることが出来た。電波ゲーとも言われるが,作り込まれたシナリオの妙が冴え渡る名作。希実香エンドの後,クソでかい感情に飲み込まれてしまい,数日は会社でも放心してしまっていた。


【高音質】空気力学少女と少年の詩 【Full】歌詞付き

 

 なお現在進行系でWHITE ALBUM2をプレイ中である。雪菜が良い子すぎる……。


届かない恋

 

アニメでは宇宙よりも遠い場所だった。実はニューヨーク・タイムズで「The Best TV show of 2018」に選出されたことで見始めたのだが,あまりに面白すぎて号泣しながら2日で見終わってしまった。南極に向かう女子高生たち一人ひとりの過去を丁寧に掘り下げるシナリオ,丁寧な背景描写,躍動感溢れるカメラワーク,「止まっていた時計が今動き出した」演出,どこをとっても完璧である。


オリジナルTVアニメーション『宇宙よりも遠い場所』PV

あとアニメはdアニメストアに加入しているので,最近は過去作品を見ることが多い。目下ひだまりスケッチ』『さよなら絶望先生』『ガン×ソード』『ぱにぽにだっしゅ!を見ている。今年で平成終わるんだけど。

 

簡素に今年の抱負!死なないこと!!とかで終わらせるつもりが結局長くなってしまった。

 

タイトルは最近読んだ社会学はどこから来てどこへ行くのか』から。

このなかで最も興味深かったのは「合理性」についての話だ。曰く,合理性とは「サンプルから母集団を推測するときの媒介項」である。個別具体的なサンプルの行為から,全体の母集団の行為に妥当性があるかどうかを推測するものが合理性。そのうえで「この行為には合理性がある」と認識し,初めて「理解」というフェーズに移行する。なるほど。

社会学はどこから来てどこへ行くのか

社会学はどこから来てどこへ行くのか

 

終わり。今年もよろしく。

朱に交わったって赤くならない色もある

「体育会系」という言葉にずっと違和感があった。よく分からないもやもやがあった。今回改めてそう感じたのは,つい先日記事にした陽キャとの出会い」も関係しているかも知れない。必ずしも体育会系=陽キャではないが,ニアリーイコールではあるように思える。体育会系ってなんなんだろう。この違和感はなんなんだろう。

 

「体育会系」について,例えばその定義が分からない。大学生の頃に「サークル」ではなく「運動系の部活」に所属していれば体育会系なのか。例えばその社会での捉えられ方が分からない。言葉は悪いが,昨今ではスポーツのパワハラ事件や過労死事件が多発しており,体育会系=上の言うことに従属するしかない脳筋バカ,のように捉えられている気がする。本当にそうなのか。そもそも「多発している」という事自体に対しても「本当に発生件数が増えたのか」もしくは「発生件数は変わっていないけど暗数が認知されるようになった(体育会系を糾弾したいという意図をもって)のか」という疑問もある。

 

まず,「体育会系」の辞書的な意味は以下の通りだ。

たいいくかい‐けい〔タイイククワイ‐〕【体育会系】

体育会の運動部などで重視される、目上の者への服従や根性論などを尊ぶ気質。また、そのような気質が濃厚な人や組織。

小学館デジタル大辞泉

 

「体育会系」というのは「気質」というふわふわした概念であり,またその気質が横溢した組織を指すらしい。つまりこの時点ではこの言葉は肯定的でも否定的でもないニュートラルな言葉である。ところで,属性「体育会系」の人が属性「体育会系」の組織に加入することによって,その気質は相乗効果で良くなる感じなのだろうか。そこで「体育会系」の対義語として語られる「文化系」についてもあわせて考えてみると,以下のように個人×組織の属性の組み合わせは2×2=4通りあるということになり,現実に即して考えると興味深い。

①個人「体育会系」×組織「体育会系」

②個人「体育会系」×組織「文化系」

③個人「文化系」×組織「文化系」

④個人「文化系」×組織「体育会系」

 

このうち望ましい環境は,相乗効果で良くなる①と③ということになりそうだ。確かに②では文化系の組織で「私,納得できません!」とアツくなる体育会系主人公が描けるし,④では文化系のモヤシだった主人公が体育会系の組織に入って「根性」を身に着けていくサクセスストーリーが描けるなど,いずれも物語のお題としては抜群だが,さて実際問題現実に置き換えると個人・組織ともにやりづらさは拭えないだろう。②や④の個人は遅からず転職活動に励むことになると思われる。朱に交われば赤くなるとよく言うが,それは白だったらそうなるという話で,補色である緑だったらアイデンティティが崩壊するだけだ。やっぱり異文化コミュニケーション。いやディスコミュニケーション

 

ところでWikipediaでは「体育会系の特徴の一例」というものが掲載されていた。書きぶりに悪意を感じなくもないが,面白い記述なので以下に掲載する。言っちゃあ何だが,これだけ見ると単なるバカとしか思えない。 そこにあるのはものすごくティピカルな「体育会系」像だ。ちなみに私はこのような人間を見たことがないし,本当に存在しているのかどうか怪しい気がしてならない。「体育会系」という言葉自体はニュートラルなものだが,実際の用例としては「体育会系を批判したい!」という悪意を説明するための「都合のいい言葉」になっている気がする。ニュートラルなはずの言葉自体が言葉に対する悪意を包摂しているという論理関係の破綻がある。冒頭に述べた私の違和感はそこにあった。

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「体育会系」についてのwikipedia中の記述。

また,「体育会系」と合わせて語られることも多い「根性論」「精神論」「感情論」というのも,言葉自体はニュートラルでも実際の用例としてネガティブな意味を内包した言葉だ。「論」と言うからには,「存在論」「実在論」「唯物論」「唯名論」などと同様になんらかの体系立った思想であるはずだが,しかしいずれも「体育会系」と同様に本来の意味は捨て去られ,「根性ばっかり言うバカ」「精神ばっかり言うバカ」「感情ばっかり言うバカ」という絞りカスのような批判的意味合いしか残っていないように思われる。少なくとも私はこれらの言葉が肯定的に用いられているのを見たことがない。「あなたのそれは感情論ですよね」と言われて嬉しい人などいないだろう。

  

なんとなく体育会系の定義について分かったところで,社会での捉えられ方についても考えてみたい。前述の通り,ここ最近では「体育会系」という言葉は社会的にも肯定的なニュアンスで用いられていない。ぱっと調べて見るだけで以下のようなニュースが出てくる。

president.jp

www.businessinsider.jp

 

やはり日大アメフト部の悪質タックル問題は「体育会系」のネガティブなイメージのきっかけではあったと思うが,思い返せばあの問題はまだ今年の5月である。間違いなく,それ以前から体育会系に対するイメージは良くなかったはずだ。いつ潮目が変わったのかは分からないが,いつからか体育会系には「パワハラ」という言葉がついて回るようになってしまった。

 

ところでインターネットではパワハラ事件や過労死事件が起きるたびに体育会系に対する否定的なコメントをしている人をたくさん見かける。曰く「体育会系は弱いやつを寄ってたかって叩く」「体育会系は上の言うことが絶対で逆らえない」「体育会系はかつて自分がされてきた嫌なことを『俺もやったんだから』と部下にやらせる」。本当に,必ずしもそうなのか。そして文化系の人は聖人君子でそういうことをしないのか。だいたいそういうコメントをしている人は体育会系の人の何を知っているんだろう。私は文化系の人間なので,体育会系の人について語る言葉を持たない。厳しい練習をこなしてきた体育会系の人たちが,本当にそんな否定的な評価をされるべきなのか。少なくとも私には,体育会系の人はもっとずっと肯定的な評価を受けるべき人たちに思える。

 

ここまで書いておきながら何だが,私は体育会系の人を擁護したいとかいう考えは一切ない。文化系の人を擁護するつもりもない。上に掲載したWikipediaの「体育会系の特徴の一例」みたいな人なんて怖いし,できれば一生関わり合いたくない。ただ,それはあまりにティピカルな体育会系像だし「体育会系」という言葉に内包された否定的な評価が嫌だな,そしてそのせいで社会的に不利益を被る体育会系の人がいるのは不合理だな,と思っただけだ。私は特定属性の集団に肩入れをすることはあまりしたくない。その属性の括りが大きければ大きいほど,その括りから取りこぼされる人が(意図的であれなんであれ)存在するからだ。そして括られた人はマイノリティの大義を得てその取りこぼされた人を攻撃するからだ。

 

特にオチもない。クリスマス・イブなので「Merry Christmas,Mr.Lawrence」とでも言っておく。そういやこのブログの説明んとこに「平坦な戦場で生き延びること」なんて書いてあるし。ぴったり。

戦場のメリークリスマス [DVD]

戦場のメリークリスマス [DVD]

 

 ていうか冷静に考えて『戦場のメリークリスマス』,デビッド・ボウイ坂本龍一北野武内田裕也内藤剛志大島渚監督って豪華すぎるよな。

終わり。

 

 

 

 

 

 

「あなたにはわからない」vs「俺がお前のことを一番わかっている」

よいよめちゃくちゃに寒くなってきた。最近は暖房をガンガン効かせ,ふるさと納税でどことも知らぬ「ふるさと」から届いた5kgのみかんを食べながらぬくぬくとしている。寒いながらも夜はよく散歩しているが,やはり冬の夜景は綺麗だ。秋葉原マーチエキュート神田万世橋の明かりが神田川に映り込む光景は,秋葉原というオタク・シティにいることを忘れさせるほどに幻想的だ。

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秋葉原の夜景。

さて本題。つい最近,あるニュースを見た。南青山の児相問題だ。

www.asahi.com

南青山の児相問題自体は数か月前から話題になっていたものだが,これは先週に住民説明会が開かれたことを受けてのニュースだ。

 

その中で印象的な記述があったので以下に引用する。下線は私が引いた。

近くに住む女性は「3人の子を南青山の小学校に入れたくて土地を買って家を建てた。物価が高く、学校レベルも高く、習い事をする子も多い。施設の子が来ればつらい気持ちになるのではないか」「青山のブランドイメージを守って。土地の価値を下げないでほしい」といった声も出て、区側との考えの溝は埋まらなかった。

 

いろいろなところで発言者の「青山ブランド」を持ち上げる根性というものが批判されていたが,まあそれは置いておいて,私はこの言葉に「無意識の差別意識を強く感じ取った。特に前半のコメントは見事なまでに差別意識が現れていて興味深い。

 

ここからさきは単なる推測だが,わざわざ住民説明会に足を運んで発言したこの女性はかなり「意識が高い」住人だろう。だからこれをもって青山在住の人々の民意とすることは出来ないと思う。「青山の人間は高慢ちきな成金・小金持ちだ!」と断ずる意見がネット上に散見されるが,そういう一部の意見を全体の意見としか見做す意見(主語がでかい,とも言える)に対しては「今回の問題を利用して自分の言いたいことを言ってるだけじゃないの?歪んだ正義感を振り回すなよ。人の褌で相撲を取るなよ」と思ってしまう。

 

さて,前述した「無意識の差別意識という話。この差別意識は社会に共有されているものだと思う。それが無意識なだけで。表出していないだけで。

 

例えば「大学はどちらを出たんですか?」という会話は高卒や専門卒の人間を前提としていない。「勤め先はどちらですか?」という会話は無職の人間を前提としていない。ただ多くの場合,この問いを発した人間には高卒者や無職を差別しようなんて「意識」はないはずだ。目の前にいる相手が大学まで進学していることや働いていること(もしかしたらさらに『フルタイム』『正社員』という括りがつくかも知れない)を無意識のうちに前提としているだけなのだ。

 

その無意識の差別意識は,環境によって形づくられることが多い。だからそれは仕方がないことではある。確かに私は高卒や専門卒というカテゴリーが存在していることは知っているが,いずれの人間にもいまだかつて会ったことがない。いまの職場というコミュニティのみにとどまる限り,今後も会うことはないだろう。高校を卒業したら「当然」大学に進学し,場合によっては大学院に進学するという「社会の線路」に乗った人間しか会ったことがない。だから私も相手に「大学はどちらを出たんですか?」と聞くと思われる。その発言の裏側には,表出していない「無意識の差別意識」がある。

 

では「無意識の差別意識」は無くす必要があるのか?そういう意識を持っているだけでレイシストなのか?……結論から言えば無くす必要はないし,そもそもそんなことは不可能だ。確かに先の例では「大学”等”はどちらを出たんですか?」「勤め先”等”はどちらですか?」と聞けば形式的には問題は解決する。「私は高卒も無職も差別していないですよ!私はレイシストじゃないですよ!!」と諸手を挙げて堂々と発言できるかも知れない。だが言うまでもなくそんなことに何の意味もない。本当に何の意味もない。だが一方,「社会」がこだわっていることは,得てしてそういう何の意味もないことだ。内容を伴わない形式だけを調えることに汲々としているのが実態だ。

 

有り体に言ってしまえば,人は自分と違う人間を理解することはできない。「俺はお前のことを一番わかっている」なんていうのは嘘つきの詭弁で,それは友人だろうが親友だろうが恋人だろうが夫婦だろうが親族だろうが関係ないわかるわけがないのだ。自分以外の人間は「友人」とか「恋人」とか「夫婦」とか,関係性の濃淡に応じて便宜的に名称を付しただけの赤の他人に過ぎない。他人のことはわからない。自分自身のことだってわからないのだから。

 

できるのは,相手を理解しよう,そして相手を尊重しようという努力だけだ。教科書みたいな言い回しだが,本当にそれだけだと思う。

 

そのなかで気をつけたいのは「当事者でないあなたにはわからない」ですべてを切り捨てる「当事者マウンティング」と呼ばれるもの。以下の記事を引用する。

gendai.ismedia.jp

当事者マウンティングの最大の問題は、対話の扉を閉ざし、知るチャンスを封じることにある。

自分にしかない状態を根拠にするので、相手がどんなことを言ってきても「当事者でないあなたにはわからない」の一言で相手を黙らせることができる。

 

そう,「あなたにはわからない」「俺がお前のことを一番わかっている」というのは常に緊張関係にある。またしても教科書みたいな記述ではあるが,どちらの両極にも振れず,中庸であることが最も望ましい態度と言えよう。簡単に導き出された結論は,得てして過激で暴力性に満ちている。

 

わからないながらも相手を理解しようというその姿勢にこそ強い魅力を感じるのは私だけではないはずだ。その努力を惜しむと,人は本当の意味で堕落する。「どうせ誰もわかってくれないんだ」といじけて自分ひとりの穴を掘って閉じこもり,低い位置から人々を攻撃する。そんなに難しく考えず「自分をわかってもらうために相手をわかろうとする」,ギブアンドテイクで良いのではないだろうか。最近の私はそんなふうに思っている。勿論まだまだ努力不足ではあるのだが。あっ,シン・ゴジラ始まったしこのへんで終わりにする。

 

終わり。

 

立てば百合,座れば百合,歩く姿は百合の花

にやら強いタイトルをつけてしまったが,急に百合が来たので(QYK)仕方がない。ところで「急にボールが来たのでQBK)」と言ってももう誰にも通じないような気がするが,気にせず進める。

dic.nicovideo.jp

 

これは特段百合に限ったテーマではないのだが,「関係性」について,大学生の頃からずっと考えていることがある。「大学生の頃から」というのは,私が中高男子校出身であり,大学に入るまで異性を意識することがほぼ無かったというバックグラウンドも関係しているかもしれない。

 

そのテーマは「私は個別具体的な構成要素にはさほど興味がなく,両者の間に紡がれる関係性に興味があるのではないか」ということだ。つまり,私自身のものの考え方としてAとBという断片的な要素ではなく,A-B間の関係性をとにかく重視しているような気がしているのだ。極論してしまえば,A-B間の関係性が残存すればAとBが消失したとしてもいいのだ。

 

そしてその「関係性」というテーマは,最近Blu-rayを購入したリズと青い鳥でも再認識することになった。この作品は響け!ユーフォニアムという吹奏楽部員を描いた作品に登場する傘木希美(以下:希美)鎧塚みぞれ(以下:みぞれ)に焦点を当て,ふたりの触れると忽ち壊れてしまいそうな関係性を丁寧に描いたものである。

 

ここだけだと「ああまた百合か」と片付けてしまう人もいるかもしれない。事実,私もそれで劇場に足を運ぶのがだいぶ遅れた(今となっては後悔している)。というのも,漫画やアニメなどにおける女性キャラ同士の恋愛感情を描いた作品というものはそれこそ「また百合?」と言うレベルで溢れかえっているからだ。1クールにひとつは百合アニメがあり,漫画はテコ入れ的に百合展開を入れることで人気を博し,エロゲからは男主人公が消失し女性キャラ同士の繊細な物語を楽しむ作品が増えた。右を見ても左を見ても百合なのである。立てば百合,座れば百合,歩く姿は百合の花なのである。では『リズ』は百合なのか?と言われるとちょっと断言しかねる。いや,より正確を期すのであれば「限りなく百合に近い友情」とでも言うのだろうか,だからこそ惹きつけられるのだろうなと思う。

 

ここで憤る人もいるかもしれない。「そもそも百合ってのは『友情以上,恋愛感情未満』な関係性なんじゃねーのかよ!百合に近い友情ってなんだよ!!矛盾してるじゃねーか!!!」といった具合に。そう,この話をするために,まずは「百合」を定義づけないといけない。近年の百合作品の増加は必然的に百合世界の多様化をもたらしている。いわゆるマリア様がみてるにおける「タイが曲がっていてよ」的なオーソドックスな百合は王道だが,百合というのは常にアップデートされている概念であるのだ。めちゃくちゃダサい言葉で言えば,「百合2.0」ということだ。

 

 百合2.0,百合レッドオーシャンの時代で,しかしやはり百合を定義づけるとすれば「友情以上,恋愛感情未満」というのは未だにひとつの大きな基準であろう。往々にして「恋愛感情未満」という堤防は女のクソでかい感情によってぶち壊されていくが,この基準はまだ役割を失ってはいない。

 

この基準に照らせば,『リズ』における希美とみぞれは一点の曇りもなく百合である。では一体どこに疑義を差し挟む余地があるのか?実は希美が容易な解決を妨げているのだ。彼女の存在によって,『リズ』は多義的な見方をされることになる。つまり百合と紙一重の非・百合作品として受容されうるのだ。

 

希美は鈍い。いまや死語だが「ニブチン」なのである。みぞれの想いには気づけない。そもそも明るい性格で友達がたくさんいる希美と引っ込み思案な性格で友だちが少ないみぞれの共通項はいたって少なく,強いて挙げるならばそれは「楽器」くらいしかない。しかしその楽器も決してふたりの”原点”ではない。希美に誘われて吹奏楽部に入ったという”後付”である点は示唆的だ。「たくさんいる友達のうちのひとり」であるみぞれと「たったひとりの特別」である希美。当然その非対称性は歪を生み出し,事件を引き起こす。そしてその事件は両者の関係性に影を落としている。ここまでは完全に百合のそれだ。百合の一般常識と言ってもいい,両者の立場の違い。ギャル×オタクのような立場の違いによる感情のすれ違いは百合を百合たらしめる。勿論それは男女のNL(ノーマルラブ)についても言えることではあるのだが。

 

しかし希美は徹底的に鈍い。どれだけみぞれに想われようとも気づけない。周りから示唆されても気づけない。誤解を恐れずに言えば,みぞれが狂気的な偏愛であるならば,希美は狂気的な無関心なのだ。そしてその狂気の総量は希美がずっと上回っているように見える。いつまでもみぞれから希美への一方通行な想い。希美のそれは隣人愛とも言えるようなもので,その愛は皆に等しく注がれている。だが誰にとっても等しく優しい人というのは誰にとっても特別にはならない。誰をも愛しているようで誰も愛していない。

 

私は希美を見ていると普通であることを起源とする人物,空の境界黒桐幹也を思い出すのだが,きっとそこには「特別にならない」「普通」を媒介項としたアナロジーがあるのだろう。そして,普通であるがゆえに最も狂気を孕んでいるのが黒桐幹也であり,希美である。

dic.nicovideo.jp

 

そしてその「誰にとっても特別にはならない」という壁を,クソでかい感情でぶち破るのがみぞれなのだ。それは『空の境界』とのアナロジーで言えば両儀式。そしてここが最も重要なポイントなのだが,それでもなお,最後の最後まで希美は鈍いままなのだ。そう,百合というからには両者の関係性に変化がなければならない(と思うのだ)。最初っから最後まで同じ関係性,というのは百合の許容範囲をいささか超えるのではないか,と思う。『リズ』はここを紙一重でかわしている。両者の関係性は,マクロな視点では互いの道を進んでいくという点で大きく変化しているが,ミクロな視点では変化していない。というか変化しているのだが,その関係性の変化はギリギリの地点,ボーダーラインの一歩手前で留まっている。ゆえにこの作品は百合と非・百合の境界線上にある。

 

さて,随分と長々と書いてきたがここで当初のテーマに戻る。誤解を恐れずに言えば,私は『リズ』の登場人物である傘木希美にも鎧塚みぞれにもそこまでの関心はない。ふたりに対してキャラ萌え!といったこともない。これは逆張りではない……と思う。ただひたすらに,その関係性を見ていたい。勿論,希美とみぞれを結ぶ名状しがたい関係性は当然,希美とみぞれの存在を前提にしている。だから論理的に言えば(因果律によれば),希美とみぞれが消失すればその関係性も消失するはずだ。ここで言う「消失」というのは物理的な消失というよりはAやBのような記号に還元されるという意味だ。そういえばつい先ほど,私は以下のようなことを書いた。

極論してしまえば,A-B間の関係性が残存すればAとBが消失したとしてもいいのだ。

 

記号化にともなう登場人物の消失。それにともなう関係性の消失。しかし,しかし。そこにわずかばかりの残り香があれば,たちどころにその関係性が私の眼前に立ち現れてくると信じてやまないだから消失しても構わない。私は必ず思い出すことができるから。あれこれウテナじゃん。

 

ところでねとらぼで宮澤伊織先生といとう先生が気になる記事があるのでこちらも掲載しておく。「これからの『百合』の話」をしており,百合の多様性やBLとの比較などとても読み応えがある記事であった。

nlab.itmedia.co.jp

 

終わり。

ディスコミュニケーションあるいは言葉のドッジボール

い先日,あまりにも強烈な異文化コミュニケーションを体験してしまったのでここに纏めておこう。言葉のキャッチボールならぬ言葉のドッジボール

 

私はありがたいことにサークルの先輩(新郎)の結婚式に招待していただき,二次会から参加してきた。おととい,土曜日のことだ。久しぶりに会うサークルの人もおり旧交を温めた……と言いたいところだが,どちらかと言えばただただ周りの雰囲気に圧倒されていた。いや,気圧されていたと言って良いだろう。”力”に。

 

私は,否私達は知らなかった。結婚式の二次会というのは,己の力のみを信じ日々その研鑽に励むクッソ強いマッチョな”本物のオス”たちがビール瓶をグビグビと一気飲みしながらFワードを連呼し叫び散らかす,力と力がぶつかり合う猛り狂った力比べの場だということを。

 

かたや招待されていたサークルのメンバーは男女ともに落ち着いた(オブラートに5重くらいに包んだクッソやさしい表現)人が多いため,正直完全に浮いていた。新郎新婦入場の時に拍手をする以外は,ひたすら本物のオス同士が角突き合わせて力比べしているのを口を空けて見てるしかなかった。ツーブロックのゴリラって本当にいるんだ……と驚嘆してしまった。

 

本物のオス「ウェーイ!!!いけいけいけ!!!(ビール瓶をグビグビと飲む)」

先輩「こういうひとたちって普段どこにいるんだろ……動物園?(ヒソヒソ)」

本物のオス「おまえここでナンパすんなよ!!!童貞かよ!!!!(肩パン)」

私「陰と陽,決して交わらないもの,科学と魔術が交差しちゃってる感じですね……(ヒソヒソ)」

 

アレここ高架下か?というくらい本物のオスの声量がデカすぎる(本物のオスなので当然である)ので,サークルの人と会話するのも一苦労であった(サークルの人はみんな声が小さい)。おかげでここ数か月で一番大きい声を出したので喉が痛くなった。まあ大体想像がつく通り,私達はさほどお酒も飲めない(本物のオスではないので当然である)ので,とりあえず色々食べていた。すると時折背後からすごい大声で新郎を野次る声が聞こえてくるので国会か!?となったりする。ちなみにその人は周りが誰も乗ってこないのに一人で延々とディスり続けるメンタルお化けだった。もしくはラッパー。

 

あとこれは今回得た気付きだが,ヒトの反応には3ステップある。数字が大きいほど反応が大きい。以下は私の勝手な命名だ。

①サイレント(無音)

②ハンドクラップ(拍手)

③シャウティング(叫)

 

そして本物のオスが②の状態の時,私達は①の状態。本物のオスが③の状態の時,私達は②の状態にあることが多い。経験がある人もいるのではないだろうか。陽キャの方々がワーッとかウェーイと叫んでいる時,陰キャの方々はただただ拍手をしていなかっただろうか。この3ステップにおいて,常に陰キャ陽キャのひとつ下の段階にいる。私はそういう光景を何度も見たことがある。結局陽キャ陰キャは魂のステージが違うのだ。魂の在り方が違う。どう取り繕ってもメッキは簡単に剥がれる。

 

二次会が終わる頃には延々と本物のオスの力比べを見せつけられてすっかり疲れていたが,ここでまさかの異文化コミュニケーションが発生した。本物のオスは帰ろうとする私(初対面)にいきなり通せんぼをしてきたのだ。私が本物のオスかどうか試しに来たのか?未開の地のイニシエーションか?私の中で一瞬のうちに色んな感情がグルグルと渦巻き,スッと消えた。すると「なんですか?」というまっ平らな声が出た。本物のオスは訳のわからない言語を発して道を空けてくれた。私は異文化に言葉が通じたことにいたく感動した。

 

外で他の人を待っていると,サークルの女性にめちゃくちゃ本物のオスたちが群がってきた。またしても異文化コミュニケーション。正直にすごいな,と思ったのは,人の無言に対して「何も言わないならオッケーっしょ!!!」と振る舞う彼らのマインドだ。そして一方的に「こいつの彼女は~」とか「キャバクラで~」とか「俺はN総研って会社なんですけど,知ってます?」とかありがたい情報を与えてくれる。なんて強いマインドなんだろう。一方私達は無言に対して「あっ……お気を悪くさせてしまってごめんなさい」と撤退してしまう。本物のオスのそのクッソポジティブなマインドは正直見習いたいなと思ったのだ。そして言いたいことだけ言って「銀座の相席屋行こーぜ!!!」と彼ら本物のオスは本物っぽい台詞とともにエスカレーターに乗って行ってしまった。たぶん銀座に相席屋ねーぞ。

 

エンカウントを避けてエレベーターで降りて夜景を見ようとしていると,二度あることは三度あるとばかりにまたしても本物のオスたちが出現。私達は無視を決め込んだ。目を合わせるとポケモンみたいにデレデレデレとBGMが鳴って戦闘に入ってしまうからだ。しかし彼らのクッソポジティブなマインドは砕けない。タタタッとこちらに駆け寄ってくる。普通に恐ろしかった。三度目の異文化コミュニケーション。ここは駅前留学NOVAか?

 

開口一番「これから三次会で一緒に銀座行きませんか?」。私はもう耐えられなかったので顔を背けて夜景を眺めていた。めちゃくちゃいい笑顔で笑ってしまっていたからだ。当方に迎撃の用意ありとばかりにこちらの誰もが拒絶のめっちゃ分厚いATフィールドを張っているにもかかわらず,容易にアンチATフィールドを展開してきたのだ。

 

「明日仕事なんで……」

「明日日曜っすよ!!!」

「忙しいんで……」

「何の仕事ナンスカ!?」

「はひ……」

 

これには驚いた。こいつバーサーカーじゃん。狂戦士じゃん。勝てないわ。だって手にしたもん全部宝具にしちゃうんだもんな。

 

長々と書いてきたが,本物のオスのマインドには見習うべきものがあるのは確かだ。相手がどう思っていようが口に出さないんだったら関係ねえ!!俺はこういう男なんだ!!!というその図太さは,掛け値なしに羨ましいなと思った。人生もさぞ楽しかろう。私がそうなれるとは到底思えないけれども。あと誤解しないでいただきたいのは,私はとても楽しかったということだ。めちゃくちゃ笑った。異文化に触れ合うことって楽しいことなので。なかなか蛮族(バルバロイ)の方々と触れ合う機会もないし。

 

写真は会場近くのお台場で見た夜景。文字通りレインボーなレインボーブリッジをバックに見る冬の花火も綺麗であった。

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タイトルは植芝理一さんの漫画『ディスコミュニケーション』から。

絵の描き込みが激しく,素晴らしい漫画。同作者の『夢使い』『謎の彼女X』もオススメです。

夢使い(1) (アフタヌーンコミックス)
 

 

終わり。

Down the rabbit-hole

つも何となく思いついたような内容のない話を書いているだけだが,今日は珍しく日記を書いてみる。タイトルで素晴らしき日々の序章を思い浮かべた人も多いだろうが特に関係はない。関係はないがちょっと前にフルボイス版をクリアした身から言うと,あの序章は2周目やると「あ~~~!!!高島ざくろ!!!」となり,感動もひとしおである。

 

◯11/23(金・祝日)

この日から公開されている京成電鉄旧・博物館動物園に行ってきた。14時からのツアーに申し込んでおいたのだが,どうやらツアー以外で入場しようとすると整理券が必要で,それは午前中に配布終了してしまったのだそうだ。おかげでせっかく来たのに入れないという人もたくさんいた。念のためにツアーに申し込んでおいて正解だった。

 

この駅は1997年に休止,2004年に廃止されたのだそう。駅の存在自体は親から聞かされていたため割と昔から知っていたが,もちろん中に入るのは初めてなのでウキウキしながらツアーガイドの後を付いていく。外装は国会議事堂っぽい。今年,駅舎では初めて東京都選定歴史的建造物に指定されたのだとか。

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重たい扉が開いて中に入ると,巨大なもふもふが現れる。ウサギのオブジェだ。Down the rabbit-holeみたいな感じなのだろうか,と思ったがどうやらこのウサギはアナウサギという穴を掘って暮らすウサギで,地下鉄をその巣穴に見立てたインスタレーション作品であるらしい。

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ガイドに促されるままに地下に潜る。Down,Down,Down……。何やら光が差していて神々しい感じになっている。何かサイレントヒル4で見た光景だ。両端の壁からゴーストが出て強攻撃をしてきそう。

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さて,そうこうするうちにプロジェクターで開業当時の写真のスライドが壁に映し出される。話が京成疑獄に及んだのでオッとなりちょっとおもしろい。ちなみにガイドは頭だけウサギのきぐるみをかぶっているので,歪みの国のアリス』のシロウサギっぽい。ウデ ウデ ウデ♪ウデはどこだろ♪」というやつだ。たぶんその場で歪みの国のアリスのことを考えていたのは私一人だろうというどうでもいい自信がある。

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階段を下っていくと少々広い踊り場のような場所に出る。そこでは今回のインスタレーション作品の趣旨でもある,博物館と動物園の展示がなされている。ガラスケースに入っているものは上野動物園にかつていたホァンホァンというジャイアントパンダの頭蓋骨。施設をまるまる使ったインスタレーション作品で,なかなかおもしろい趣旨だ。何となくホラー繋がりで『ib』を思い出していた。ゲルテナの絵はどこだろう?

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さらに地下に潜っていくと切符売り場があるが,そこには立ち入ることができなかった。ホームは見えないが,実際に電車が通る音が聞こえてくる。やっぱサイレントヒル4で見た光景だ。ちなみにこのホーム,3両編成の電車しか止まることができないらしく,いまの電車の規格ではまったく止まれないことになる。やはり駅としての復活はないとのことだ。文字通りの残当である。

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ツアー自体は正味30分ほどであったが,あっという間に感じられるくらい面白かった。写真ではわかりにくいかも知れないが,壁には閉業直前に書き込まれたと思われる落書きがたくさんあり,これまた歴史を感じさせる。

 

その後は上野を散策する。上野大仏や五重塔などを訪れてみると,上野という街は幼い頃から知っているつもりでも実際は博物館や美術館や動物園や不忍池アメ横くらいしか知らないことに気づく。言うまでもないことだが,一部を知っただけで全部を知った気になってしまうのは良くないのである。「一を聞いて十を知る」のではなく「一を聞いて十を知った気になる」のは色々な可能性を狭めてしまう。

やはり「いつも心に好奇心(ミステリー)!」ということで今回の記事の締めとする。

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いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)

いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)

 

 

終わり。