The Life Must Go On
今日はユニクロ新春フェアに行っていた。半額のカシミヤセーターとかフリースを買うためだ。これが高校生の頃だったら気取ってPARCOとかLUMINEのUNITED ARROWSとかに行っていた(うぜ~)と思うが,もうそういう風に自分を着飾ることはやめてしまった。二重の意味で。求めているのは,ただただあったかいスウェットやカシミヤセーターなどの「生活のための服」である。1着2,000円の服で十分生活はできる。そして生活はつづく……。ていうか今更だけど「生活」って言葉すごい。「生きる」「活きる」って。いきいきしすぎ。
さて,今回「分かる」について書きたい。
借金玉氏というツイッター有名人の著作『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』を読んだ(Kindle Unlimitedに入っていた)。
ちなみに私は仕事術的なノウハウ本はクソほども役に立たないと思っているので普段はそういうのを全く読まないが,借金玉氏をツイッター上で知っているので読んでみたわけである(誰に対してなのか分からない言い訳)。借金玉氏はツイッター上で割と辺り構わずかみつく人だな~とよく傍観しているのだが,氏は実業家だった側面もあると知って「ツイッター奥深ぇ……」となった。著作の中で「分かる」について興味深い箇所があったので,以下に掲載する。小見出し「「わかるよ」は適当でいい」に注目していただきたい。
「なるほどなあ」と思った。私にとって「分かる」というのはすごく重大で,軽々しく口に出せる言葉ではなかった。だって貴方のことなんか何ひとつ「分からない」し。貴方の抱えている事情を知らない。貴方の思考のバックボーンを知らない。貴方の本当に考えていることを知らない……。たくさんの「知らない」が積み重なって,それは強固な「分からない」になっていく。分かりもしないことを分かる,と言ってしまうのは不誠実な態度だとずっと思ってきた。
でも,その態度自体は誠実だったかもしれないけれども,間違っていた。文中にもある通り,「その「誠実さ」は「誰も幸せにしない誠実さ」」でしかなかった。さらに言えば,「私は誠実です!」という自己正当化のための薄汚れた誠実だった。
たった一言,「分かる」と言ってあげること。誠実とか不誠実とかそういう役に立たない話をごたごたするのではなく,適当すぎない程度に適当に相手に共感を示すこと。今年は他者に共感する一年にもしたいと思う。
タイトルは星野源さんの傑作エッセー『そして生活はつづく』とQueenの楽曲「The Show Must Go On」から。星野源さんのエッセーは音楽活動にとどまらない表現者として,本当に読んでいて心地よい。
ちなみに立川シネマシティで『ボヘミアン・ラプソディ』の発声上映やるらしいので,また観に行ってくる予定。気になる方はぜひ。
終わり。