「まあいいか」
「まあいいか」で済ませてしまったことは、本当によかったのだろうか。
本当に「別にどうでも」よかったのだろうか。
「まあいいか」「別にどうでも」とつぶやく度に、ぼくたちは貧しくなる
大地は割れ
海は干上がり
家は荒れ果てる
諦めるたびに捨てていく
きらきらしたものを側溝のドブに捨てていく
空にごみ箱
小さい頃、空にごみ箱があった。
何を言っているかわからないかもしれないので写真を貼ってみる。
調べて見たらYahoo!知恵袋にも同様のことを考えている人がいるようであった。
いまでは、これは柱上変圧器と呼ばれるものであることを知っているが、小さい頃は本当にごみ箱だと思っていた。
こんな高い位置にあるんじゃごみを入れにくいなーと思って、電信柱をよく見ると、足をかける足場のようなものがある。
これも足場ボルトという名前らしいが、小さい頃のわたしは「フランケンシュタインの頭に付いてるやつ」と呼んでいた。
よくよく考えれば空にごみ箱というのは大変発想として面白い。
いったいなにを捨てるんだろう。誰が回収するんだろう。そもそも誰が捨てられるんだろう。空想は無限大に広がる。
上善は水の如し。
滔々と水が流れていく。
清く、涼やかな水だ。
それは滾々と湧き上がり、溜まることなく、淀むことなく流れていく。
木々の緑を溶かし込んだ色で、柔らかな日差しを浴びてキラキラと輝いている。
わたしは水の流れを見ている。
試みに、足元に落ちていた木の枝を差し込んでみる。
水は木の枝にぶつかり、一瞬だけ動揺を見せ大きく盛り上がるが、すぐに冷静さを取り戻して流れ下っていく。
わたしは水が好きだ。
その透き通った美しさは宝石にも比肩する。
その柔らかなあり方を大変好ましく思う。
まさに、老子が「上善は水の如し」と記した通りだ。
では翻って、わたし自身はどうだろうか。
わたしはわたしのことが嫌いだ。
わたしは美しくなどなく、誰からも愛されない。
誰もがわたしを見て路傍の石を見るような、無関心の視線を投げつける。
そのたびにわたしはひとり静かに、そして深く傷ついていく。
わたしはわたしのことが嫌いだ。
しかしそれは、わたしの自己愛が歪な形で湧き上がっているに過ぎないのかもしれない。
ここで湧き上がっているのは、清冽な水などではなく、淀みきった薄暗い感情だ。
感情の奔流は濁流となってわたしの中を駆け巡り、その強力な侵食作用でわたしを削り取っていく。
わたしは磨り減っていく。
わたしはなにもわからない。
わたしにもなにかがわかる日が来るのだろうか?
なにもわからないわたしだが、わたしは水になりたい。
願わくば、その清さを好んでくれる美しい魚を住まわせる事のできるような、澄み渡った水に。
そして守りたい。
その美しさを、その尊さを、その生命を。
いつも何かが欲しくって。
こんばんは。
タイトルの「いつも何かが欲しくって。」、これは『ちーちゃんはちょっと足りない』という漫画の帯に書かれている言葉だ。
この漫画、本当に読後感が最悪で、死にたくなる。救いもない。まったく暴力的ではないが、緩やかに死に蝕まれていくような、生きながら殺されていくような、そんな感触。しかし何度も読み返してしまう。
それはきっと、主人公に共感してしまう自分を何度でも再発見してしまうから。「こんな最低の私」を何度でも再発見して、何度でも罰することが出来るから。
『ちーちゃんはちょっと足りない』の主人公は常に「いつも何かが足りない。いつも何かが欲しい。わたしは恵まれていない」と思っています。同時に「でもその状況を変えるための努力もしたくない」とも。…すでに胸が痛い。
「ちーちゃん」は主人公の親友。主人公たちは中学生だが、ちーちゃんは小学生のような喋り方で子どもっぽい女の子。ふたりはなかよし。
でも、主人公はどこかちーちゃんを見下している。そんな自分にも気がついている。物語の終盤、ちーちゃんがいなくなってしまう時にも「探すのめんどくさいなー」と思っている。そしてその自分に気がついて、自分を責めている。特徴的なのは、それらがすべてモノローグで、言葉にはなっていないことだ。つまり、自分の中でふつふつと湧いて出た感情を、自分の中で殺している。どこまでも内向きな主人公。
「ちーちゃんすら私を否定するなんて」
「あーあつまんない自殺でもしよっかな」
「みんな私を嫌いでしょ後悔すればいいんだちーちゃんもお母さんもクラスメイトも」
「はいはいどうせ私だけがクズですよ」
「こうやってふつふつと不満も嫌らしいことも考えてるくせに一切主張せず黙ってて」
「私は変化することが怖くて衝突することが怖くて消失することが怖くて」
「その場をいい加減にやり過ごして誰にも害を与えることすらなくあたりさわりなく生きて」
「それがいい人っぽく見えてるだけで」
「私は何もしないただの静かなクズだ」
ここで注目したいのは、主人公は自分のことをクズだと思っているが、変わろうとはしていないことだ。それを思春期特有の感情などと言ってはいけない。そんなクズは大人になっても世の中に掃いて捨てるほどいる。たとえば、わたしのような。
そして、そういうクズは決して満たされることはない。断言できる。何を手に入れても、絶対に満たされない。いつも何かが足りない。いつも何かが欲しい。そして何が足りないのか、何が欲しいのかは絶対にわからない。それは人間の欲望の深さなどに還元できる話ではない。そんな物質的な満足で話が済むのであれば、誰も自殺しない。
「絶対にわからない」、それは永遠の責め苦だ。それは永遠の罰だ。なぜわからないのか、答えは簡単だ。「本当は何も足りてないものなどないから」だ。
一見して矛盾しているが、それなりの理屈がある。要は本当に足りてしまうことが怖いのだ。足りているのであれば、失敗しても「(足りないから)できなかった」という言い訳が通用しなくなってしまう。それが何よりも恐ろしいのだ。だから努力もしない。「(努力しても)できなかった」、つまり「能力がない使えない人間」と思われるのが怖いからだ。本当は、努力もせずにできない人間のほうがよっぽど「能力がなく」「使えない」のだが、心のなかでそれはわかっていてもなお努力をすることが怖い。努力して失敗すれば、斜に構えて失敗した人を嘲笑う事ができなくなってしまうから。どこまでもくだらない話だ。
おそらく一生、この責め苦から解放されることはないだろう。そこから逃れるすべは、死ぬことだけだ。
わたしもいま、すごくもやもやしている。言語化されない感情が胸中で渦巻いている。感情と言葉が未分化の、原始的な状態。
思い返すことなど(1.5)
前回からかなり時間が空いてしまったが、書いていきたい。
というか、日常編だけで相当の分量になってしまうような気がする。
第2回は「学園祭編」を予定していたが、前回で完全に紙幅が尽きてしまった(「紙幅が尽きてしまった」と言いたいだけ)ので、まだまだ日常編が続く。特に誰も読んでいないブログなので勝手気ままに続ける。
どうでもいいが、このブログを始めてから3年くらい経つのだが、コメントが付いたことはついに一度もない。
だが、アクセス数を見ると、たまにこのブログを訪れているひとがいるらしい。ありがちなタイトルのブログなので、検索で間違ってたどり着いているのだろうか。
日常編
家に何度も遊びに行ったことを思い返した。
Mは漫画が好きで、家には漫画が溢れかえっていた。驚いたのは、成人向け漫画がそこらへんに散らかっていたことだ。
母親や妹も「早く片付けなさいよ」と言っていて、なにやら懐の深い家族だな…などと感じたりした。
Mの名誉のために言っておくが、だいたいいつもこんな感じだ。待ち合わせで1時間以上遅れてきて、平気で「個室ビデオで致してきた」とか言ってくるのだ。あ、名誉のためではなかったか。
Mは運動部にもかかわらずオタク趣味にも妙に通じていた。最近は遠ざかっているようだが、当時は漫画・アニメ・ゲームのことだったらかなり詳しかったのではないだろうか。道満晴明やら駕籠真太郎、松本大洋など「サブカル」感のあるものをよく知っていた。Fate/staynightのエロシーンにいきりたち、画面に中指を立ててる写真を送りつけられた気がする。
コミケにも行っていた。わたしはめんどくさくて行かなかったので、コミケ帰りのMらと秋葉原で合流(だいたいモスバーガー)してその場で同人誌の検分を行うという、コミケ当日ならではの地獄のような光景を繰り広げていた。
旅行にいくときも、いわゆる「聖地」を訪れることが何度もあった。詳しくは「旅行編」にて記述するが、例えば尾道では「かみちゅ!」、西宮では「涼宮ハルヒの憂鬱」、白川郷では「ひぐらしのなく頃に」と言った具合だ。
話が出たついでに。秋葉原はMとの思い出を振り返る上で欠かせない場所である。
初めて行ったのは中2か中3の頃だと思う。この頃は目に見えるすべてのものが新しく、輝いて見えていた。「あきばお~」、「ドネルケバブ」、「とらのあな」、「アニメイト」、「メロンブックス」、「MAD(変な店)」、「三月兎」、「武器屋」、「アソビットシティ」…数限りない。
特に「あきばお~」「三月兎」は、秋葉原に馴染みの深い方ならよく知っているだろうが、パチもんっぽいものをいろいろ売っている。今思えば可愛いものだが、PSPのメモリースティックなんかも大容量の高いものをこういう店で買っていた。16GBなど?いまでは鼻で笑われそうなものである。
中学生の頃のわたしたちはそういう「アングラ」なものに惹かれた。
「九龍城」という、中国製のパチもんゲームショップがあった。「Wiiっぽいなにか」「プレステっぽいなにか」を初めて目にしたわたしはとてもワクワクした。アングラな空気ってステキ、そういうミーハー精神旺盛なお年頃だったのだ。
「マジカル上海」というマジコンショップがあった。結局わたしはマジコンは使わなかった(というかDSをあまりやらなかったので用途がなかった)が、「M3」というものが大量に流通し、その後規制されたようだ。「マジカル上海」もいかにもなアングラな店だった。閉店したあと「マジカル上海ターボ」として一旦復活したが、再度閉店したようである。いまは近くに有名な牛カツのお店があるようでよく人が並んでいる。「九龍城」も「マジカル上海」もいまは存在しない。
ちなみに、加藤智大による秋葉原通り魔事件が2008年6月に起きているが、それ以前と以降の秋葉原は大きく様変わりした。
これはわたしなぞが書くまでもなく、すでに様々なところで書かれたことだと思うが、ストリートパフォーマンスのようなものは大きく規制されることになった。アキバblogさんらへんの当時の記事を見ていただければその様子はよく分かるだろう(参考:http://www.akibablog.net/archives/2008/03/akihabara-080324.html)。
そういえば、どこかでアキバblogにわたしが載ったらしいが、当時関心がなくあまり見なかったのでどこなのかよくわからない。当時、アキバ四天王なるものがおり、わたしが載った記事はアキバ四天王のハルヒと軍服を着たオタクが警察とバトルをしており、わたしとMが歩いていたらなぜかオタクのデモを先導するかたちになってしまって焦ったような記事だった気がするが、9年までのことでもあり記憶が曖昧である。わたしはこのとき、高1だった。
秋葉原通り魔事件の日、わたしは駿台予備校かなにかの模試を受けていた。その後でMの家に遊びに行った。
数人でスマブラをしたりしていたところ、テレビが騒がしい。なんだなんだ、とテレビを見ると秋葉原通り魔事件の報道をやっていた。見慣れた場所。そこにトラックが突っ込み、ナイフで死傷者が出ている。大変驚いた。日が違えばわたしも秋葉原にいた可能性は大いにあったのだ。ちなみにMは、わたしたちを駅まで送ってくれて、その後で深夜の秋葉原の事件現場ちかくまで行ってきたらしい。無論、警察が張っていて近寄れなかったようだが。
この街はいまでは様変わりしてしまったが、当時のわたしたちにとっては大切な街だった。
Mは音楽にも詳しかった。わたしはいろんなことをMに教えてもらった部分もある。
洋楽・邦楽問わず詳しかった。アニメソング・同人ソングも勿論詳しかった。
東方アレンジの石鹸屋やビートまりおのライブも行っていたようである。わたしはライブには関心がないので行ったことがない。
「SoundHorizon(通称サンホラ)」というグループは、いまでは主催者のRevo氏が紅白に出るくらいに有名になったが、これもMから教えてもらった。中2~3、「そういう時期」まっさかりだ。どっぷりとハマった。考察サイトを日々巡り、この歌詞の意味は…などとやっていた。初めて聴いたのは「Ark」で、あまりの衝撃にiPodに入れて池袋東口の交番前でずっと放心状態で聴いていたのをよく覚えている。そもそもMはなぜサンホラを知っていたのだろうか。よくわからないが、無事「布教」されたというわけだ。
どうしても文化系のネタに寄ってしまう。実はわたしは中高硬式テニス部なのだが、限りなく文化系に近い運動部だった。
Mは体育が得意だったので、運動関係のこともいろいろやっていたのだろうが、そこはわたしにはわからない。
これでだいたい書けた気がする。
次回、「学園祭編」。
思い返すことなど(1)
思い返すことなど。
何の脈絡もなく思い返すことを書いていこうと思う。
先日、友人宅でバーベキューをするということで高校の友人達と会った。
中高一貫校の男子校なので6年間同じ校舎にいたのだが、わたしは非社交的な人間なので、在学中に話さなかった人のほうが多いくらいだ。
現にバーベキューに誘ってくれた友人とも、在学中はほとんど話したことがない。
ちなみにその友人は自宅でバーベキューセットを持っており、夏休みはカナダで釣りを楽しみ、親の外車を乗り回しているようなハイパー雲の上天上人だ。
その日も彼の外車(しかもオープンカー)に友人たちと一緒に乗せてもらい、ドライブに連れて行ってもらった。
その後はバーベキュー、となんだか違う世界のような体験をした。
そこで、急に思い出したのだ。中高生の頃のことを。
以下、4回にわけて書いていこうと思う。
1回目…日常編
2回目…学園祭編
3回目…旅行編
4回目…高校卒業後編
日常編から書いていく。
中高生の頃の日常だ。
わたし自身は、基本的に自分からひとに話しかけないので、交友関係が広がらない。
そんな生活を当たり前だと思っていた節もある。
そのなかで、ひとりだけ例外的な人物がいた。
それがMという人物だ。
ちなみにそのMとは中3の頃からほぼ毎年旅行にいくことになり、同じ大学に進学することになり(向こうは浪人しているが)、同じ業界に就職することになった。
初めてクラスが一緒になったのは中2の頃。
なんだかうるさいやつがいるなあ、くらいの印象だった。
わたしは中1の頃は優等生タイプ、というか、安心できる数人のおとなしめグループに属しており、家に遊びに行ってゲームや遊戯王カードで遊んだりそこそこ居心地良く過ごしていた。
そこに嵐のごとく現れたのがMである。
わたしが所属していた「中2C」は当時の不真面目なメンバーの寄せ集めみたいなクラスで、教師もやる気がなかった。退学者も多かった。「中2C」というクラスは無法地帯だったのである。Mとはそこで初めて出会った。
Mはなぜかわたしによくちょっかいを出してきた。
いじる、という感じでいきなり授業中に私の名前を大声で叫んだりして、うるさいやつがいるなあという思いはどんどん強まっていった。
しかし一方で、Mは寂しがりやのようで、どこに行くにもひとりでは嫌、というタイプのようだった。
彼は水泳部、わたしはテニス部だったのだが、水泳部の部室に行くのに付いてこい、というようなことをよく言ってきた。
面倒くさいからやだよ、と言うと、アイスおごるから!とか言ってくる。
仕方ないから付いていく。アイスはおごってくれないこともままあった気がする。よくよく思い出してくるとムカついてきた。
いまでも覚えているのだが、友人と新宿に来ていたときにMから電話が来て、遊戯王カードのことを延々と1時間くらい聞かれた。
たしかこれは出会って数週間くらいのことだ。
ひとと仲良くなるまでに数ヶ月を平気で要するわたしにとって、その積極的な姿勢は驚きに当たるものであった。
一緒にカードショップに行ったり、一緒に漫画喫茶に行ったり、一緒にマックに行ったり、一緒にラーメン食べに行ったり、一緒にゲーセンに行ったり、一緒に廃墟に行ったり。
一緒になにかをした思い出は数限りない。
漫画喫茶では、いかにも中学生らしくグロ動画や検索してはいけない言葉などを調べていた。廃墟に行くための情報を調べたりもした。
ラーメンはだいたい池袋で食べた。テスト期間中など時間があるときは、Mが先頭に立つかたちで後ろに何人も付いていってラーメンを食べるようなこともあった。やはりMのカリスマ性は抜群だったのだろう。
昔、池袋東口パルコ横に観光案内所があり、毎回そこでMは地方から上京してきた学生のふりをして、東京の美味しいラーメンを教えてください!とくだらない小芝居を打っていた。観光案内所のおばちゃんたちも、頻繁に来るわたしたちのような馬鹿共によく付き合ってくれたものだと思う。いろいろ調べて、ここのラーメンが人気だよ!なんて教えてくれた。MはMで毎回栃木から来ただの群馬から来ただの、バリエーションをつけており、絶対おばちゃんは気づいていたがのってくれていた。
おかげで池袋の有名所のラーメンは東口。西口問わずかなり制覇したのではないか。
おばちゃんに感謝である。
ゲーセンは、いまではほとんど無くなってしまったが、池袋のブランズウィック(バッティングセンターやボウリングも併設。中華料理屋も併設されていたがあまり美味しくなかった。数年前に廃業)や江古田のアミューズメントフタバ(このあいだ行ったらスーパーになっていた)やぐりんぐらす(このあいだ行ったら会社が入っていた)や秋葉原のタイトーステーションなどによく行った。
わたしは「クイズマジックアカデミー」をプレイしており、相当のめり込んでいた。当時、学校全体でマジックアカデミーのブームで、わたしは休日にもMとゲーセンに通っていた。また休講情報が入れば真っ先にフタバに駆けつけた。Mはガンダムの格ゲーをやっており、わたしの分も出してくれて対戦をすることもあった。
人数がいれば「ビシバシチャンプ」というとにかくボタンを叩きまくるゲームをプレイしたり、エアーホッケーなども楽しかった。
逆にUFOキャッチャーやマリカなどはほとんどしなかった気がする。
廃墟は「行川アイランド」に行ったのが中3の時。
入り口には高いフェンスがあり、有刺鉄線が巻きつけてあり、侵入を拒んでいた。
何よりも怖かったのは、常に人の気配がしていたことだった。
その時はわからなかったが、土地の管理者が警備の人を出しており、なかには見回りの人がいたのだ。
帰り際に掃除をしていたらしいおばさんに見つかり、ダッシュで逃げ、有刺鉄線のフェンスをよじ登ったところ、ジーパンが勢い良く破れダメージジーンズになってしまったのも、本当にいい思い出なのだ。
もう取り壊されてしまったようだが、「九段下ビル」という壊れかけのビル(実際は入居者がいる)に行ったのも懐かしい。
とりとめもなく思い出話を書くことは出来るが、そろそろまとめて次回に回したい。
Mはどこのグループにもなんとなく属しているムードメーカーではあったが、特に誰と親しい、ということはなかったのではないか。Mは同窓会などに来ても、旧交を温める友人たちを蚊帳の外で冷めた目で見ている。わたしはテニス部の仲間と話していたりするのだが、わざわざ隣に来たりする。
Mがよくいじっている別の生徒がいた。こいつもMなので、以下mとする。
わたしはmのことはよく知らないが、よくMがいじっているので、便乗していじったことも何度もある。
そのとき1対1で面と向かってmから言われたことが今でも忘れられない。
「今日は親分のMはいないのか?」
俺はMの子分として見られていたのか、と愕然とした。
そのとき世界が真っ暗になるような感覚を覚えた。
Mとは付き合いをやめよう、とそう思った。
わたしはプライドだけは一人前に大きかったので、「子分」という言葉のナイフは一番深く刺さった。
(次回、学園祭編)
断章(I)
みなさん、はじめまして。
わたしの趣味は映画鑑賞と読書とカメラです。
前の学校ではテニス部でした。
好きな食べ物はラーメンです。
座右の銘は「一期一会」です。
よろしくおねがいします。
はい、転校したばかりで慣れないこともあると思うけど、みなさん仲良くしてあげてくださいね。
誰か質問あるひとはいますか?
ひとつ、いいでしょうか。
教えてください、あなたは、誰ですか。
趣味はわかりました。前の学校での部活もわかりました。好きな食べ物もわかりました。座右の銘もわかりました。
ところで、あなたは、誰ですか。
わたしは誰?
ごう、という大きな音がした。真っ暗な世界で、わたしは、ひとりぽっちで立ち尽くしていた。
質問者も、先生も、他の生徒も、誰も彼もいなくなっていた。
教室さえなくなっていた。
わたしは、ぼくは、あたしは、俺は、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
誰なんでしょう?
わからない。
真っ暗な世界で、たったひとりぽっちのわたしは。
誰なんでしょう?
そのとき、涙がひとしずく、ぽたりと落ちた。
そのおかげで、いつもわたしはわたしに立ち戻ることができる。
そこは真っ暗な世界などではなく、教室。
そこではひとりぽっちなどではなく、にこやかな生徒と先生がわたしを迎えている。
ただひとり、質問者の姿だけが見えない。
わたしはわたしだ。ぼくも、あたしも、俺も。
わたしは、わたしでしかないのだ。
だから、わたしはわたしのまま、歩きつづけるのだ。
古びた病院。病室の窓の外から、カラスだけがわたしを見つめていた。ら、カラスだけがわたしを見つめていた。