冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

いつも何かが欲しくって。

こんばんは。

タイトルの「いつも何かが欲しくって。」、これは『ちーちゃんはちょっと足りない』という漫画の帯に書かれている言葉だ。

この漫画、本当に読後感が最悪で、死にたくなる。救いもない。まったく暴力的ではないが、緩やかに死に蝕まれていくような、生きながら殺されていくような、そんな感触。しかし何度も読み返してしまう。

それはきっと、主人公に共感してしまう自分を何度でも再発見してしまうから。「こんな最低の私」を何度でも再発見して、何度でも罰することが出来るから。

 

ちーちゃんはちょっと足りない』の主人公は常に「いつも何かが足りない。いつも何かが欲しい。わたしは恵まれていない」と思っています。同時に「でもその状況を変えるための努力もしたくない」とも。…すでに胸が痛い。

「ちーちゃん」は主人公の親友。主人公たちは中学生だが、ちーちゃんは小学生のような喋り方で子どもっぽい女の子。ふたりはなかよし。

 

でも、主人公はどこかちーちゃんを見下している。そんな自分にも気がついている。物語の終盤、ちーちゃんがいなくなってしまう時にも「探すのめんどくさいなー」と思っている。そしてその自分に気がついて、自分を責めている。特徴的なのは、それらがすべてモノローグで、言葉にはなっていないことだ。つまり、自分の中でふつふつと湧いて出た感情を、自分の中で殺している。どこまでも内向きな主人公。

 

「ちーちゃんすら私を否定するなんて」

「あーあつまんない自殺でもしよっかな」

「みんな私を嫌いでしょ後悔すればいいんだちーちゃんもお母さんもクラスメイトも」

「はいはいどうせ私だけがクズですよ」

 

「こうやってふつふつと不満も嫌らしいことも考えてるくせに一切主張せず黙ってて」

「私は変化することが怖くて衝突することが怖くて消失することが怖くて」

「その場をいい加減にやり過ごして誰にも害を与えることすらなくあたりさわりなく生きて」

「それがいい人っぽく見えてるだけで」

「私は何もしないただの静かなクズだ」

 

ここで注目したいのは、主人公は自分のことをクズだと思っているが、変わろうとはしていないことだ。それを思春期特有の感情などと言ってはいけない。そんなクズは大人になっても世の中に掃いて捨てるほどいる。たとえば、わたしのような。

そして、そういうクズは決して満たされることはない。断言できる。何を手に入れても、絶対に満たされない。いつも何かが足りない。いつも何かが欲しい。そして何が足りないのか、何が欲しいのかは絶対にわからない。それは人間の欲望の深さなどに還元できる話ではない。そんな物質的な満足で話が済むのであれば、誰も自殺しない。

「絶対にわからない」、それは永遠の責め苦だ。それは永遠の罰だ。なぜわからないのか、答えは簡単だ。「本当は何も足りてないものなどないから」だ。

一見して矛盾しているが、それなりの理屈がある。要は本当に足りてしまうことが怖いのだ。足りているのであれば、失敗しても「(足りないから)できなかった」という言い訳が通用しなくなってしまう。それが何よりも恐ろしいのだ。だから努力もしない。「(努力しても)できなかった」、つまり「能力がない使えない人間」と思われるのが怖いからだ。本当は、努力もせずにできない人間のほうがよっぽど「能力がなく」「使えない」のだが、心のなかでそれはわかっていてもなお努力をすることが怖い。努力して失敗すれば、斜に構えて失敗した人を嘲笑う事ができなくなってしまうから。どこまでもくだらない話だ。

 

おそらく一生、この責め苦から解放されることはないだろう。そこから逃れるすべは、死ぬことだけだ。

わたしもいま、すごくもやもやしている。言語化されない感情が胸中で渦巻いている。感情と言葉が未分化の、原始的な状態。