冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

立てば百合,座れば百合,歩く姿は百合の花

にやら強いタイトルをつけてしまったが,急に百合が来たので(QYK)仕方がない。ところで「急にボールが来たのでQBK)」と言ってももう誰にも通じないような気がするが,気にせず進める。

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これは特段百合に限ったテーマではないのだが,「関係性」について,大学生の頃からずっと考えていることがある。「大学生の頃から」というのは,私が中高男子校出身であり,大学に入るまで異性を意識することがほぼ無かったというバックグラウンドも関係しているかもしれない。

 

そのテーマは「私は個別具体的な構成要素にはさほど興味がなく,両者の間に紡がれる関係性に興味があるのではないか」ということだ。つまり,私自身のものの考え方としてAとBという断片的な要素ではなく,A-B間の関係性をとにかく重視しているような気がしているのだ。極論してしまえば,A-B間の関係性が残存すればAとBが消失したとしてもいいのだ。

 

そしてその「関係性」というテーマは,最近Blu-rayを購入したリズと青い鳥でも再認識することになった。この作品は響け!ユーフォニアムという吹奏楽部員を描いた作品に登場する傘木希美(以下:希美)鎧塚みぞれ(以下:みぞれ)に焦点を当て,ふたりの触れると忽ち壊れてしまいそうな関係性を丁寧に描いたものである。

 

ここだけだと「ああまた百合か」と片付けてしまう人もいるかもしれない。事実,私もそれで劇場に足を運ぶのがだいぶ遅れた(今となっては後悔している)。というのも,漫画やアニメなどにおける女性キャラ同士の恋愛感情を描いた作品というものはそれこそ「また百合?」と言うレベルで溢れかえっているからだ。1クールにひとつは百合アニメがあり,漫画はテコ入れ的に百合展開を入れることで人気を博し,エロゲからは男主人公が消失し女性キャラ同士の繊細な物語を楽しむ作品が増えた。右を見ても左を見ても百合なのである。立てば百合,座れば百合,歩く姿は百合の花なのである。では『リズ』は百合なのか?と言われるとちょっと断言しかねる。いや,より正確を期すのであれば「限りなく百合に近い友情」とでも言うのだろうか,だからこそ惹きつけられるのだろうなと思う。

 

ここで憤る人もいるかもしれない。「そもそも百合ってのは『友情以上,恋愛感情未満』な関係性なんじゃねーのかよ!百合に近い友情ってなんだよ!!矛盾してるじゃねーか!!!」といった具合に。そう,この話をするために,まずは「百合」を定義づけないといけない。近年の百合作品の増加は必然的に百合世界の多様化をもたらしている。いわゆるマリア様がみてるにおける「タイが曲がっていてよ」的なオーソドックスな百合は王道だが,百合というのは常にアップデートされている概念であるのだ。めちゃくちゃダサい言葉で言えば,「百合2.0」ということだ。

 

 百合2.0,百合レッドオーシャンの時代で,しかしやはり百合を定義づけるとすれば「友情以上,恋愛感情未満」というのは未だにひとつの大きな基準であろう。往々にして「恋愛感情未満」という堤防は女のクソでかい感情によってぶち壊されていくが,この基準はまだ役割を失ってはいない。

 

この基準に照らせば,『リズ』における希美とみぞれは一点の曇りもなく百合である。では一体どこに疑義を差し挟む余地があるのか?実は希美が容易な解決を妨げているのだ。彼女の存在によって,『リズ』は多義的な見方をされることになる。つまり百合と紙一重の非・百合作品として受容されうるのだ。

 

希美は鈍い。いまや死語だが「ニブチン」なのである。みぞれの想いには気づけない。そもそも明るい性格で友達がたくさんいる希美と引っ込み思案な性格で友だちが少ないみぞれの共通項はいたって少なく,強いて挙げるならばそれは「楽器」くらいしかない。しかしその楽器も決してふたりの”原点”ではない。希美に誘われて吹奏楽部に入ったという”後付”である点は示唆的だ。「たくさんいる友達のうちのひとり」であるみぞれと「たったひとりの特別」である希美。当然その非対称性は歪を生み出し,事件を引き起こす。そしてその事件は両者の関係性に影を落としている。ここまでは完全に百合のそれだ。百合の一般常識と言ってもいい,両者の立場の違い。ギャル×オタクのような立場の違いによる感情のすれ違いは百合を百合たらしめる。勿論それは男女のNL(ノーマルラブ)についても言えることではあるのだが。

 

しかし希美は徹底的に鈍い。どれだけみぞれに想われようとも気づけない。周りから示唆されても気づけない。誤解を恐れずに言えば,みぞれが狂気的な偏愛であるならば,希美は狂気的な無関心なのだ。そしてその狂気の総量は希美がずっと上回っているように見える。いつまでもみぞれから希美への一方通行な想い。希美のそれは隣人愛とも言えるようなもので,その愛は皆に等しく注がれている。だが誰にとっても等しく優しい人というのは誰にとっても特別にはならない。誰をも愛しているようで誰も愛していない。

 

私は希美を見ていると普通であることを起源とする人物,空の境界黒桐幹也を思い出すのだが,きっとそこには「特別にならない」「普通」を媒介項としたアナロジーがあるのだろう。そして,普通であるがゆえに最も狂気を孕んでいるのが黒桐幹也であり,希美である。

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そしてその「誰にとっても特別にはならない」という壁を,クソでかい感情でぶち破るのがみぞれなのだ。それは『空の境界』とのアナロジーで言えば両儀式。そしてここが最も重要なポイントなのだが,それでもなお,最後の最後まで希美は鈍いままなのだ。そう,百合というからには両者の関係性に変化がなければならない(と思うのだ)。最初っから最後まで同じ関係性,というのは百合の許容範囲をいささか超えるのではないか,と思う。『リズ』はここを紙一重でかわしている。両者の関係性は,マクロな視点では互いの道を進んでいくという点で大きく変化しているが,ミクロな視点では変化していない。というか変化しているのだが,その関係性の変化はギリギリの地点,ボーダーラインの一歩手前で留まっている。ゆえにこの作品は百合と非・百合の境界線上にある。

 

さて,随分と長々と書いてきたがここで当初のテーマに戻る。誤解を恐れずに言えば,私は『リズ』の登場人物である傘木希美にも鎧塚みぞれにもそこまでの関心はない。ふたりに対してキャラ萌え!といったこともない。これは逆張りではない……と思う。ただひたすらに,その関係性を見ていたい。勿論,希美とみぞれを結ぶ名状しがたい関係性は当然,希美とみぞれの存在を前提にしている。だから論理的に言えば(因果律によれば),希美とみぞれが消失すればその関係性も消失するはずだ。ここで言う「消失」というのは物理的な消失というよりはAやBのような記号に還元されるという意味だ。そういえばつい先ほど,私は以下のようなことを書いた。

極論してしまえば,A-B間の関係性が残存すればAとBが消失したとしてもいいのだ。

 

記号化にともなう登場人物の消失。それにともなう関係性の消失。しかし,しかし。そこにわずかばかりの残り香があれば,たちどころにその関係性が私の眼前に立ち現れてくると信じてやまないだから消失しても構わない。私は必ず思い出すことができるから。あれこれウテナじゃん。

 

ところでねとらぼで宮澤伊織先生といとう先生が気になる記事があるのでこちらも掲載しておく。「これからの『百合』の話」をしており,百合の多様性やBLとの比較などとても読み応えがある記事であった。

nlab.itmedia.co.jp

 

終わり。