冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

「あなたにはわからない」vs「俺がお前のことを一番わかっている」

よいよめちゃくちゃに寒くなってきた。最近は暖房をガンガン効かせ,ふるさと納税でどことも知らぬ「ふるさと」から届いた5kgのみかんを食べながらぬくぬくとしている。寒いながらも夜はよく散歩しているが,やはり冬の夜景は綺麗だ。秋葉原マーチエキュート神田万世橋の明かりが神田川に映り込む光景は,秋葉原というオタク・シティにいることを忘れさせるほどに幻想的だ。

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秋葉原の夜景。

さて本題。つい最近,あるニュースを見た。南青山の児相問題だ。

www.asahi.com

南青山の児相問題自体は数か月前から話題になっていたものだが,これは先週に住民説明会が開かれたことを受けてのニュースだ。

 

その中で印象的な記述があったので以下に引用する。下線は私が引いた。

近くに住む女性は「3人の子を南青山の小学校に入れたくて土地を買って家を建てた。物価が高く、学校レベルも高く、習い事をする子も多い。施設の子が来ればつらい気持ちになるのではないか」「青山のブランドイメージを守って。土地の価値を下げないでほしい」といった声も出て、区側との考えの溝は埋まらなかった。

 

いろいろなところで発言者の「青山ブランド」を持ち上げる根性というものが批判されていたが,まあそれは置いておいて,私はこの言葉に「無意識の差別意識を強く感じ取った。特に前半のコメントは見事なまでに差別意識が現れていて興味深い。

 

ここからさきは単なる推測だが,わざわざ住民説明会に足を運んで発言したこの女性はかなり「意識が高い」住人だろう。だからこれをもって青山在住の人々の民意とすることは出来ないと思う。「青山の人間は高慢ちきな成金・小金持ちだ!」と断ずる意見がネット上に散見されるが,そういう一部の意見を全体の意見としか見做す意見(主語がでかい,とも言える)に対しては「今回の問題を利用して自分の言いたいことを言ってるだけじゃないの?歪んだ正義感を振り回すなよ。人の褌で相撲を取るなよ」と思ってしまう。

 

さて,前述した「無意識の差別意識という話。この差別意識は社会に共有されているものだと思う。それが無意識なだけで。表出していないだけで。

 

例えば「大学はどちらを出たんですか?」という会話は高卒や専門卒の人間を前提としていない。「勤め先はどちらですか?」という会話は無職の人間を前提としていない。ただ多くの場合,この問いを発した人間には高卒者や無職を差別しようなんて「意識」はないはずだ。目の前にいる相手が大学まで進学していることや働いていること(もしかしたらさらに『フルタイム』『正社員』という括りがつくかも知れない)を無意識のうちに前提としているだけなのだ。

 

その無意識の差別意識は,環境によって形づくられることが多い。だからそれは仕方がないことではある。確かに私は高卒や専門卒というカテゴリーが存在していることは知っているが,いずれの人間にもいまだかつて会ったことがない。いまの職場というコミュニティのみにとどまる限り,今後も会うことはないだろう。高校を卒業したら「当然」大学に進学し,場合によっては大学院に進学するという「社会の線路」に乗った人間しか会ったことがない。だから私も相手に「大学はどちらを出たんですか?」と聞くと思われる。その発言の裏側には,表出していない「無意識の差別意識」がある。

 

では「無意識の差別意識」は無くす必要があるのか?そういう意識を持っているだけでレイシストなのか?……結論から言えば無くす必要はないし,そもそもそんなことは不可能だ。確かに先の例では「大学”等”はどちらを出たんですか?」「勤め先”等”はどちらですか?」と聞けば形式的には問題は解決する。「私は高卒も無職も差別していないですよ!私はレイシストじゃないですよ!!」と諸手を挙げて堂々と発言できるかも知れない。だが言うまでもなくそんなことに何の意味もない。本当に何の意味もない。だが一方,「社会」がこだわっていることは,得てしてそういう何の意味もないことだ。内容を伴わない形式だけを調えることに汲々としているのが実態だ。

 

有り体に言ってしまえば,人は自分と違う人間を理解することはできない。「俺はお前のことを一番わかっている」なんていうのは嘘つきの詭弁で,それは友人だろうが親友だろうが恋人だろうが夫婦だろうが親族だろうが関係ないわかるわけがないのだ。自分以外の人間は「友人」とか「恋人」とか「夫婦」とか,関係性の濃淡に応じて便宜的に名称を付しただけの赤の他人に過ぎない。他人のことはわからない。自分自身のことだってわからないのだから。

 

できるのは,相手を理解しよう,そして相手を尊重しようという努力だけだ。教科書みたいな言い回しだが,本当にそれだけだと思う。

 

そのなかで気をつけたいのは「当事者でないあなたにはわからない」ですべてを切り捨てる「当事者マウンティング」と呼ばれるもの。以下の記事を引用する。

gendai.ismedia.jp

当事者マウンティングの最大の問題は、対話の扉を閉ざし、知るチャンスを封じることにある。

自分にしかない状態を根拠にするので、相手がどんなことを言ってきても「当事者でないあなたにはわからない」の一言で相手を黙らせることができる。

 

そう,「あなたにはわからない」「俺がお前のことを一番わかっている」というのは常に緊張関係にある。またしても教科書みたいな記述ではあるが,どちらの両極にも振れず,中庸であることが最も望ましい態度と言えよう。簡単に導き出された結論は,得てして過激で暴力性に満ちている。

 

わからないながらも相手を理解しようというその姿勢にこそ強い魅力を感じるのは私だけではないはずだ。その努力を惜しむと,人は本当の意味で堕落する。「どうせ誰もわかってくれないんだ」といじけて自分ひとりの穴を掘って閉じこもり,低い位置から人々を攻撃する。そんなに難しく考えず「自分をわかってもらうために相手をわかろうとする」,ギブアンドテイクで良いのではないだろうか。最近の私はそんなふうに思っている。勿論まだまだ努力不足ではあるのだが。あっ,シン・ゴジラ始まったしこのへんで終わりにする。

 

終わり。