冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

いつも心に喫茶店を

回のタイトル,「いつも心に喫茶店を」。ちなみにここで言う「喫茶店」には,「静かな渋いマスターがいて洒落たジャズなんか掛かっている美味い珈琲を飲ませる店,決してクソ小洒落たPCのカタカタ音が響くカフェなどではない店」とルビをふっている。

 

のっけから少しだけ本題から逸れるのだが,わたしはこういうルビ芸とでもいう言葉遊びが好きだ。古くから知られているところでは『疾風伝説 特攻の拓なんかがある。そもそもこれ「しっぷうでんせつ とっこうのたく」と読みたくなるところだが,「かぜでんせつ ぶっこみのたく」であるところからしてすでに伝説である。かの有名な名台詞「”不運”と”踊”っちまったんだよ・・・・」を始めて読んだ時は衝撃的だった。

 

他にルビ芸でパッと思い浮かぶのは空の境界で,恐らくファン100人に聞いたら80人くらいが一番好き!と答えるのではないかと思っている黒桐幹也の以下の台詞。

「式。君をーー一生、許(はな)さない」

これを初めてみた時は鳥肌が立った。勿論映画も素晴らしかったが,本文と全く異なるルビをふることでアンビバレントな情感をもたらすというのは文字でしか情報を伝達できない活字ならではの表現技法だ。俳句や短歌が限られた文字数ゆえに無限の世界が広がるのと同様,映像も音も無い活字だからこそ世界が広がるのだ。

空の境界(上) (講談社文庫)

空の境界(上) (講談社文庫)

 

 

あともう一個だけ,個人的にルビ芸の概念を覆してくれた作品を紹介する。以前もこのブログで取り上げたことのある円城塔『文字渦』。このなかの『誤字』という一編は細かい紹介は省くので,ぜひとも読んでルビ半端ない!と仰天してほしい。こういうのは説明するだけ野暮というものだ。

文字渦

文字渦

 

 

てついつい楽しくなってしまい余計な話が長くなってしまったが,ようやく本題に戻る。 

 

先日,喫茶店での出来事である。私が本を読みながら珈琲を飲んでいると,隣りにいた老夫婦がタバコを燻らせながらお互いの馴れ初めエピソードをし始めたのだった。タバコとの。その話が印象的だったので以下に書いてみる。

「おまえいつから吸ってんだっけ」

「あたしは高校からだよ」

「なんだおせえじゃねえか,俺は中学だったぞ。オヤジのくすねてな。缶ピー(缶入りのピース)なんてかっこつけて吸ってたけど学校に持ってくの大変でさ」

「おそいったって法律じゃ駄目なんだから仕方ないじゃない」

「おまえそれ言ったら高校生だって駄目だろ」

「あそっか(一同笑い)」

 

なんていうか,いい話を聞かせてもらったなと思った。 当人が理解しているように勿論法律的に言ったらアレなのは間違いないが,それはそれ,これはこれである。とやかく言うまい。

 

そしてその流れで,ふたりは茶店を開きたかったという話をし始めた。

「あたし喫茶店開きたかったなー」

「やるんなら珈琲しか出さない店だな」

「そうそう。1階がお店で2階にあたしたちが住んでてさ」

「洒落たジャズなんか流しちゃってさ」

 

ああ,人はどんなに歳を取っても,いつでも喫茶店を開きたいのだなと思った。大げさかもしれないが,人の心の中には喫茶店があるのだ。そして現実に疲れた時にはいつでもその喫茶店を開店したくなるのだ。かくいう私も大学生の頃ぼんやりと「喫茶店開きたいなー」と思っていた。そして周りにも「喫茶店開きたいなー」と言う人間は何人もいた。「こだわりの一杯出してー」「マホガニーを削り出した温かみのある机設えてー」「澁澤龍彦の本並べてー」「チャーリー・パーカーのレコード掛けてー」「パウル・クレーの絵立て掛けてー」「ジリリリって鳴る黒電話置きてー」といった具合にその人の”好き”を喫茶店に投影し,すべてを兼ね備えた「理想の喫茶店を開店したくなるのだ。言ってしまえば渋いディテールにこだわりまくった現実版・どうぶつの森である。小さい子が「お花屋さんになりたい」って言うのと少し似ているのかもしれない。「お花屋さん」が「喫茶店」に置き換わったというのは,歳を取って感性が渋くなったということだろうか。

 

そして私の周りで「喫茶店開きたいなー」と言っていた人は,私含め誰も喫茶店でバイトはしなかった。当たり前だ。私たちはあくまで「心の中の喫茶店を開店したいだけなのだから。そしてだいたいその喫茶店は「客は一日数人しか来ない感じでー」とか「自分はカウンター奥に座ってニコニコしている感じでー」とか「開店は10時半頃でー」とか自分が楽になるような留保が付いている。要は朝早く起きたくないし楽して働きたいというわけだ。それでいいのだ,だってこれは「心の中の喫茶店」,無い喫茶店なのだ。なんで心の中でまで働かにゃならんのだ。

 

この老夫婦も本気で喫茶店を開店しようなんて思っていないだろう。しかしきっと,心の中ではすでに理想の喫茶店が開店しており,洒落たジャズをBGMに紫煙を燻らせながら珈琲を淹れているのだろう。改めていい話を聞かせてもらったなと思いながら,私はテーブル上の伝票を掴み店をあとにしたのだった。

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終わり。