冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

味の迷宮

友達と新宿・ションベン横丁のうす汚い中華料理屋で化学調味料の味がする炒飯を食べながら「最近マズいものってねぇな」という話をした。現在進行系で食ってるこれは確かに味の素の味しかしないけど別にマズくないし。何なら週一とかなら全然食えるし。毎日は嫌だけど。あ,でも皿はちゃんと洗ってくれ……あ,お小皿は水浸しのまま提供しないでくれ……そんなとこまで本場感出してこなくていいから……

 

今の御時世だいたい何を食べても美味い。金のかかった料理は勿論美味いが,丸亀製麺だって日高屋だって吉野家だってマックだってサイゼだってカップ麺だって美味い。そもそも味がある時点で御の字だ。美味いに決まってる。大学の近くに変わった肉が出てくる店があって,ワニとかコウモリとかクマとか食べたことあるけど,まあちょっと癖あっても全然食べられる味だった。

 

よく考えたらこの現代日本で本当にマズいものを食おうとするのってめちゃくちゃ難しくない?強いて言うならシュネ●ケンくらい。あのタイヤみてぇなやつ。あれは衝撃的だった。中学生の頃にドイツに旅行行った友達がこれ買ってきて食べたんだけど,マジで甘苦い?ゴム??は???みたいな味しかしなくて最悪すぎて,最終的には大富豪で負けたやつの罰ゲームになって教卓あたりに散らばっていた。ちなみにこのウズマキを引き伸ばすとコンセントみたいになって面白いのでオススメ。あと男子校なので散らばったゴムは誰も掃除しない。

 

戦犯↓(ドイツだからとかそういう政治的なことではないです)

 

まあ確かにパッケージで「これはタイヤの味だよ~」みたいなの示唆されてるけど,これはそういうことだとは思わないだろ普通。なんらかの比喩だと思うだろ。でもタイヤの味。クソみてぇなゴムの味。

 

ところでゴールデンベアーとかコーラのハリボーグミ自体は学校の売店で売っていた。しかもちょっと高いから買ってきたやつは数分間クラスのヒーローになれた。まあクレクレ乞食だらけなのでみんなから毟り取られていくだけなんだけども……そういうわけでうちの学生はみんなハリボーベアという資本主義のクマに絶大な信頼を寄せていたのに,シュネッケ●の登場でそれが一気に裏切られた。これのせいでドイツのことしばらく嫌いになった。なんかこれとサルミアッキ(いつもアルミサッシと言い間違える)とで世界一まずいお菓子決定戦みたいなの見た気がする。アルミサッシの方はよく知らんけどこれと比べられてる時点でドッコイドッコイだろどうせ。

 

シ●ネッケンへの恨みが深すぎて脱線してしまった。話をションベン横丁の小汚い中華料理屋に戻す。そいつと俺はマズいものってあんのか?という話をしていた。そしてそいつは言った。

 

いや,待て。あるぞマズいもの……

(ごくり……)

ーーーファミレスの牛タン定食。

(確かに……)

 

以前,大戸●で牛タン定食を食べたが旨味が一切なくなんかうっすいゴムを食ってる気持ちになった。0.02mmぐらいの。しかもなまじ大戸屋って1000円くらいするから,せめてねぎしくらいの牛タンが出てくるだろとちょっと期待してしまっていた。しかしゴムだった。●ュネッケンといい●戸屋の牛タン定食といい,マズいものはゴムの味がするって法則でもあんのか?

 

ファミレスの牛タン定食は食べたことないけど,他の定食があれだけ美味い大●屋であの始末なんだから比べるまでもないだろうな。しかもそこそこの値段するからそれまた腹立つな。1000円払ってゴム食った!みたいな。

 

なんでこんな話しているかというと,今度行く店が「マズい店」を店名に冠しているから。

しかし調べてみると普通に美味しいらしく,「いやいや板前さんwマズい店とか言って実は美味しいんじゃないですかw謙遜しちゃってこのこのw(ヘラヘラ」「実はそうなんですよw味のわかるお客さんにだけ来てもらいたくてw(ヘラヘラ」みたいなウザい感じがありありなのだが,それも含めて楽しんでこようと思う。間違ってもヘラヘラしないようにしたい。

 

何も考えずに10分位で,アンツィオばりのノリと勢いだけで書いてしまった。

タイトルはいま聴いている谷山浩子さんの曲『カイの迷宮』から。

冷たい水の中を言葉と歩いていく

「孤独をつぶやくな。沈黙を誇れ。」

 

数々の名言を生み出してきた,かの有名な成人向けコミック雑誌『LO』2011年11月号のキャッチコピーである。

『LO』は成人向けとは思えないたかみち氏による美麗な表紙と秀逸なキャッチコピーと,一方で普通の成人向け雑誌も真っ青なロリ一直線のとても自分に正直な雑誌だ。表紙だけ見ると普通の雑誌に見えるせいか,近所の書店ではヤングチャンピオンのすぐ横に陳列されている……いやさすがにそれは気付けよ。でもそこの書店は老夫婦がやっている漫画もほとんど置いていないような店なので,そもそもなぜ『LO』を陳列しているのかはかなり謎だ。そういえば確かAmazonでは『LO』の取扱は中止されたのではなかったっけか。

 

Twitterでは『LO』の表紙とキャッチコピーをツイートしているBotもあるので気になった方は見てみると良い(https://twitter.com/LO_CoverCopyBot)。きっとその独特の世界観に引き込まれることだろう。

 

まあ『LO』の話はそのへんにして,この「孤独をつぶやくな。沈黙を誇れ。」という秀逸なキャッチコピーである。

 

孤独をつぶやく,というのは日々まさにTwitterで行われていることだ。この瞬間も,様々なひとびとの「孤独」が電子の海を漂っている。たまに他者からのリプライやふぁぼという”釣り針”に引っかかることはあっても,基本的にそれは漂泊し続けるのみだ。それは誰に向けたものでもない愚痴だったり推しへの愛だったりするわけだけど,別にそれが良いとか悪いとか言うつもりはない。それを定量的に評価できるほど私は客観的な眼差しを持っていないし,強い人間でもない。

 

沈黙を誇れ,というのはどうだろうか。正直な話,沈黙怖くないか?

私は沈黙が怖くて,ひとりで話し続けてしまうことが多い。それは話好きだからでもなんでもなく,ただただ自分が黙った後の沈黙が怖いからだ。沈黙に刺し貫かれる痛みが怖いからだ。「シーン」という無音はどんな騒音よりも喧しく耳をつんざく。沈黙を会話と会話のはざまと捉えるならば,そもそも会話がなければ沈黙も発生しえない。だから沈黙の恐怖を味わうくらいなら会話自体を抹消してしまえばよい,原因がなければ結果は発生し得ないのだから……とも考えられる。

 

そう考えると,「孤独をつぶやくな。沈黙を誇れ。」というのは(少なくとも私にとっては)とても難しいようだ。言葉は身を守る盾であると同時に,相手を傷つける槍でもある。とても便利な存在なのだ。誰からも傷つけられず誰をも傷つけないように,冷たい水の中みたいな静謐な空間で過ごしていたいと願おうとも,言葉は常に隣りにいる。この世に生を受けた瞬間から死が与えられる瞬間まで,言葉は常に傍らにいる。人生の歩みは常に言葉とともにある。沈黙の恐怖に耐えられないひとに「甘言」を囁き堕落させていく,言葉とはそういった根源的な呪いなのではないか……。

 

……だんだん何を言っているのか分からなくなってきてしまった。このテーマについては自分の考えをうまくまとめることが出来ないのでとりあえずここまでにしてみるが,いずれ改めて挑戦してみたい。

 

タイトルは谷山浩子さんのアルバム『冷たい水の中をきみと歩いていく』から。

表題曲『冷たい水の中をきみと歩いていく』は本当に良曲なのでぜひ聴いてみてほしい。いずれ谷山浩子さんの曲についてもブログで書いてみる(こう言って逃げ道をなくす作戦)。

 

ぼくたちは何だかすべてフェスにしてしまうね

ここ数日,友人らと東北地方へドライブに行っていた。

 

まず早朝に着いた大きなダム湖では遊覧船がいた。営業時間前で乗客も誰もいないにもかかわらず「こちらに見えます雄大な景色は……」というアナウンスが聞こえてきたので,リハーサルでもやっていたのだろうか。アナウンスで録音音声ではなく人が身振り手振りを交えて話しているとなんだか嬉しくなる。そのなかでも名物になっている,USJターミネーターの綾小路麗華さん的な文化は貴重だ。

 

 

近くの店でイワナの塩焼きが売っていたが,そのすぐ横の水槽では己の運命をまだ知らないイワナがすいすい泳いでいた。

そういえば川魚の代表格・イワナイワナのなかでも川に残ったものを指し,海に出たものはアメマスと呼ばれて巨大化するのだそうだ。祖国を捨てて外に飛び出したやつがビックになった,みたいなサクセスストーリーを感じて面白い。

 

レジャー施設を避けてやたらと湖とか山とか神社に行きたがるメンバーなので,そうこうしているうちにまた別の湖に着く。

聞いたことない湖だったし,正直誰もいないと思っていた……ところが。

 

ドーン!!という効果音が聞こえてきそうなくらいに車がめっちゃ並んでいる。

思わず「フェスか!?」と叫んでしまった。

 

これはフェスについての知識がないので,人気のない所にいきなり大量の人が発生するとすべてフェスだと思ってしまうためである。実際はフェスでも何でもなく,そこそこ知られたキャンプ地だったらしい。多くの家族連れが「ここをキャンプ地とする!」と宣言し(たかどうかは知らないが)テントを張っていた。砂浜のようなものもあり,子どもが遊泳していた。

 

予想外の展開におののきながら真顔で水際でピチャピチャやり,すたこらと撤退した。

となりには「妖精美術館」なる施設があり,気になったのでHPを見てみたら一文目から「森に囲まれた湖・沼沢湖のほとりに、世界中の妖精が集まっています。」とポエティックかつ力強い文言が踊っていた。なにしろ世界中の妖精が集まっているので妖精が好きにはイチオシのスポットだ。たぶん。

 

山形県米沢で米沢牛のステーキを食べ,なんとしても一度行ってみたかった銀山温泉に向かう。川が流れており,その両岸には旅館や食事処が立ち並んでいる。日が落ちてガス燈や旅館の明かりが灯り,川に反射しているのは幻想的で,大正ロマンを感じさせた。

 

 

えっへん我々は銀山温泉で宿泊しますよ,みたいな顔をして銀山温泉街を練り歩いていたが,実際宿をとったのはそこから車で30分の別の温泉地なので,足湯に浸かっておとなしく宿に帰った。ちなみに足湯はクソほど熱かったが「はぁ~まったく熱くないな!」と嘯いて周囲に死ぬほどどうでもいいマウントを取りながら入浴した。

 

翌日は宮城県の方に向かい,石巻で海鮮丼を食べた。

「元気食堂」という名前のお店で「元気丼」という海鮮丼を食べたので,異常に元気になってしまった。

 

 

鮮魚市場ではサメが売っていた。アオザメ。つぶらな瞳で可愛らしい。見ているだけでサメ肌を感じる。ステーキや煮付けにすると美味らしいが,フカヒレや肝油ドロップ以外ではサメを食べたことがないので食べてみたいものだ。

 

 

宮城県の南の方のやたらギザギザした牡鹿半島の最南端のほうに「金華山」という最果て感のある島がある。人口6人らしい。

なにかと最果て感のあるものが好きなので,とりあえず向かってみる。山道。山道に次ぐ山道。山道すぎる。酔ってきた。しんどい。なんか靄が出てきて怖い。サイレントヒルか。ここは静岡ではなく宮城なのだが……

 

世界の果てを求めて,無限に続く山道を越え,見えてきたものは……!!!

 

―――最果てだった。

 

 

雑な感じで終わる。

タイトルは岡崎京子氏の物語集『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』から。

 

 

明日また目覚まし時計をかけるよ

最近なぜか,毎朝5時に目が覚める(しかしその後二度寝して7時半に起きることにはなるのだが……)。

 

こんなに早く起きるなんてもう歳かしら,と思っていたが,今朝目覚まし時計をよく見たらアラームが5時に設定されていた事に気がついた。ついこの間のSIREN展に早朝から並ぶために5時起きしたのがそのままになっていたのだ。

 

より正確に言えば,部屋には目覚まし時計が4つあるのだがそのうち1つが5時に設定されていた。スマートフォンのアラームは『GO MY WAY!!』『ゲンキトリッパー』などのアイドルマスターの朝っぽい曲(高槻やよいに特化している)が7時半から5分おきに8時半まで繰り返し爆音で流れる異常な仕様になっている。AmazonAlexaは7時半からポワポワした音楽をかけてくるがこれがうるさくてたまらない。あと2つはジリジリと鳴る普通の目覚まし時計で,そのうちの1つのアラームが5時のままになっていた。だから5時に1つだけ目覚まし時計が鳴り,他の3つは7時半になると「ごまえーごまえー!!・ポワポワポワポワ!!!・ジリジリジリジリ!!!」という気の狂った三重奏を奏で始めることになり,こうなるともうお手上げ。起きるしかない。

 

異常な目覚まし時計はさておき,驚くのは記憶の不連続性。

 

自分自身には朝5時に目覚まし時計が鳴っていてそれを止めた,という記憶は一切ない。実はその目覚まし時計はベッドから少し離れた場所にわざと置いてある。つまり朝5時にアラームが鳴り,無意識のうちに歩いてそれを止め,ベッドに戻り,そこではじめて「なぜか5時に起きた」と認識している。原因(アラーム)と結果(5時の起床)が結びつくどころか,それぞれが関係を失って不連続に遊離した存在になっている。

 

今朝,何の気なしに5時に設定されていたアラームを見て,そこではじめて「なぜ朝5時に起きてしまっていたのか」を理解し,世界の真理を知り得た気持ちになった。ちなみに7時半のアラームは,きちんと記憶に残っている。AmazonAlexaは「Alexaとめて!!」と言わないと異常にうるさいポワポワポワをやめてくれないので,朝から強い気持ちが求められる。イメージとしてはバーサーカーソウルをしているときの遊戯くんを「もうやめて!!」と止める杏子のような気持ち。

 

ちなみにタイトルはチラッと見たら本棚においてあった山本直樹氏の短編集『明日また電話するよ』から取った。

そして今朝の学びをブログにまとめただけなので,ヤマもオチも意味もない。まさにヤオイである。

ambivalence ambulance

最近,家の庭にきのこが生えていたので「オッ」となった。

意外ときのこは色んな所に生えている。前に近所のメガネドラッグの看板からきのこが生えていて,あれってどういうシステムなんですか?と店員に聞きたくなったことがあった(が,こらえた)。実際は看板に土が乗っていたとかそういうところだろう。得てして真実というものはつまらない。

 

きのこはどこからだって生えてくる。セミからもアリからも紅茶からも。最近知ったがスエヒロタケというキノコが人の肺の中で育って肺炎のような症状を起こすのだそうだ。嘘のような本当の話。

 

きのこは強い。こどもは風の子,こどもは木の子。なんか適当に言ってみたら『風と木の詩』みたいになった。だからどうということも無いが……これは,多くの平穏無事に生活してきた人たちの性癖の壁(”性壁”とでも言えよう)をぶっ壊したと思われる作品。最近作者である竹宮恵子氏の自伝『少年の名はジルベール』(装丁が格好良いし萩尾望都氏らとの「大泉サロン」時代が面白く描かれているのでオススメ)を読んで色々と思い出したりした。

 

話が脱線してしまった。

 

ところで僕たちが平穏無事に生活している帳をいきなり引き裂くものがある。それがきのこだ。

やつはいきなり現れる。足元に,植込に,根本に。土さえあればどこにだって。そして日常を浸食してくる。そのさまは,お前たちの暮らす日常なんて脆いものだ,足元に気をつけな……とでも言いたげにも思える。

 

きのこはなんだか非日常的だ。まあ少なくともツツジの植栽と同レベルの日常感はないだろう。紫陽花よりも。朝顔よりも。鬼灯よりも。強いて言えばトケイソウに匹敵する非日常感。トケイソウは花が時計っぽくて面白いし実はパッションフルーツなので好きだ。いきなり真っ赤なベニテングダケや”死の天使”ことドクツルタケが生えてくれたら嬉しいが,実際はだいたいなんか茶色の地味なきのこだ。それかサルノコシカケっぽいやつとかキクラゲっぽいやつとか。しかしそんなものでも胸は高鳴るものだ。

 

僕ときのことの出会いは(記憶の限りでも)幼稚園の頃まで遡るから,因縁浅からぬ関係と言えよう。

雨上がりに園内のブランコで遊んでいた僕は足元の小さい袋状のきのこを見つけた。いま考えると多分ホコリタケというきのこだったのだろう。こいつは袋をつまむと中の胞子が粉状に飛び出す……はずだった。

ところが,雨上がりだったためか,水風船よろしく水がピュッと飛び出して顔にかかった。大した勢いでもないが,それは幼稚園児を魅了するには十分だった。僕は翌日もその次の日もそいつを見に行ってツンツンと触ったりしていた。翌日は晴れていたのでバフッと粉状の胞子が飛び出した。

 

しかし数日後,そいつは跡形もなく無くなっていた。きのこの寿命が短いのか,誰か心無い人がもぎ取ってしまったのか……確かにきのこはもぎ取りたくなるフォルムをしているのは間違いないが,幼稚園児にして人の世の儚さを学ぶことになった。切ない。

 

また話が逸れたが,そう,きのこは非日常なのだ。マジックマッシュルームなんていうし。見つけるとなんかハイになる。

 

一方できのこほど日常的なものもないだろう。だってスーパーに行けばなめこが58円。エリンギが78円。ブナシメジが98円。安くて美味しい。茹でてサラダに入れるのもよし,バターで炒めて食感を楽しむのもよし,煮込んでいい出汁も楽しむのもよし。なんとも日常っぽい食材だ。

 

きのこはambivalent(ここでタイトル回収。ちなみにタイトルは語呂がいいから付けただけ)。日常的だし非日常的。どこにでもあるしめったにない。そして僕はそんなきのこの二面性に惹かれるのかもしれない。

 

空が青かったから

結局,空がなんで青いのかわからないまま生きている。

 

最近はチコちゃんという女の子がボーッと生きていると叱ってくれて,それはそれで人気があるのだそうだ。需要と供給。

なにかを知っていることはいいこと。知識を身に着けることはいいこと。それはあなたの世界を広げてくれるのだ……テレビをつければ常にクイズ番組や情報番組がやっていて,色々な芸能人が面白おかしく知識の大切さを説いている。

……でも,本当にそう?

 

空はなんで青いのか?それは「レイリー散乱という現象で,波長の短い青色がより散乱される」からだと知っている。だがそれを知ったからって別に世界は1mmも変わらないしわからない。なぜってそれを知る前も知った後も,空は変わらず青いから。ただ青いだけだから。「レイリー散乱=空が青い理由のあれ」という図式がインプットされるのみ。明日私が死んでも,君が死んでも,日本が死んでも世界が死んでも,空は変わらず青い。It's non of your business!!

 

どうせそんなことだったら,空は青いから青い,でいいのだ。ある事象をあるがままに受け入れることだってあっていい。

周りから意味付けをされる前の純粋経験。後付の理屈に雁字搦めにされる以前のそれ。

 

すべての物事に合理的な意味や理由や理屈が必要?「役に立つから」やった方がいい?そんなのは嘘だ。

言語化すればきっと「なんとなく」になってしまうもの。それはつまらないものかもしれない。でも(だからこそ),それは(それゆえに)大切なのだ。

オタクというひとびと。

こんばんは。ライカ(@trush_key)です。

 

最近気温のバグがデバックされてきたのか,やっとちょっと涼しくなってきましたね。

まあ29℃とかで涼しいって感じるようになってるのは,こちらの頭がバグっているだけみたいな疑いもありますが……

 

ブログのタイトルなんだこれって感じですが,これはこれで明快だし良いのではないでしょうか。なにかと意味深なタイトルをつけるのは,1000%メンヘラだと一万年と二千年前から相場が決まっています。SkypeやLINEのひとことメッセージに意味深なことを書いたり病んだ歌詞を引用してきたりした経験(しかも日替り。ランチの定食かよ),このブログを見ている可能性のあるフォロワーのみなさんにはある気がします(深い意味はないです)。

 

たまに考える「オタクとはなにか」。

一般的に「オタク=アニオタ」という,非常に狭い認識が広まってかなりの時間が経ってしまったように思います。オタクっていうのは,アニメを好んで見ているひと。アニメを見なくなったらめでたくオタク卒業!!

 

……改めて,「オタク」ってなんだろう。まずオタクには色々あります。アニオタはあくまでその一類型に過ぎません。鉄オタ,ミリオタ,ドルオタなど様々なオタクが世間には蠢いています(オタクは日が当たる存在ではないと思っているので「蠢いている」という表現をしました)。ただ,本来的には「オタク」という概念に包摂される「鉄オタ」「ミリオタ」「ドルオタ」が,一般的に「オタク=アニオタ」と狭く定義されてしまっているため,なにやら別異な扱いになっていたりする。

 

まあそれはそれで気になっているんですが,それ自体になにか問題があるわけではないです。気になっているのは「オタク」って「状態(ステータス)」なのかしら?ということです。「アニメを好きな状態」「鉄道を好きな状態」「軍が好きな状態」「アイドルが好きな状態」……そういう「状態」をオタクっていうのかしら???

 

わたしは違うと思います。いや,そう思いたいだけなのかもしれないですね。。。

だって「オタク」って言葉の意味が軽すぎるから。

 

個人的には「オタク」っていうのは「魂の在り方」だと思っています。

つまり,オタクというのは,「なにかに偏執的な興味を示す(ちょっと気持ち悪い)魂の在り方」。

だからアニメだろうが鉄道だろうが関係ない。「これなんなん!?めちゃくちゃ知りてぇ!!!」っていう魂の在り方。他の人はだ~れもそれに興味を示してなくって,それで「あいつらは分かってねえな……」とちょっといじけてて,でも溢れる知的好奇心や憧れのままに突き動かされているような魂の在り方。うんうん,わたしはそのような魂の在り方が愛おしくて好きだな。

 

……まるでオタクという夢から醒めたかのように,普通のひとという現実に戻ったように。「オタクやめた」「もうオタクじゃない」「オタク卒業」とひとが言うのを聞くのはなんだか寂しい。

「あ,キミがあんなに好きだったものは『状態』に過ぎなかったのか……」と思っちゃうから。だってそれって切ないじゃん。悲しいじゃん。

 

 

いつかわたしも「オタク卒業」なんてことを言っちゃうんだろうか。

その時こそ,わたしが死ぬときなのだと思う。

 

送電ロス

思考は言語化するにあたりロスが生まれる

「そんな酷い言い方ってないよ」「うわべだけ取り繕えばいいってもんじゃないよ」

 

それは送電ロスのようなもので避けられないのかもしれない

「言ってくれなきゃ分からないよ」「そんなの言わなくても分かってよ」

 

思考をそのまま出力できればひととわかりあえるかもしれない

「貴方の言葉は嘘ばっかりだね」「本当の言葉はいつだってわたしを傷つけるんだよ」

 

誰もいない海で砂を噛みながら

「なんか言ってよ」「ねえ」

 

 

 

 

転職のこと。

こんばんは。こまです。

いまはツイッターでは「ライカ」でやってるからそろそろこっちの名前も変えたほうがいい気がしてきました。気がしてきただけですが……

 

今年初投稿です。

しかもこのブログ,4年以上やっているらしい。遅筆にも程がありますね。畏れ多くもブログ界の富樫。内容はスカスカだけど。

 

前回の投稿を見てみたら,その時期は相当病んでいたようです。確かにあの頃,当時の上司(編集長)から毎日精神的にフルボッコにされていて転職を意識し始めたんだった。いま思い返してもつらくて,限界な日々でした。

 

せっかくなんで転職のこと書きますね。これはいつもの塵芥のような記事と違ってちょっとは人の役に立つかもしれません。実用的。プラグマスティック。転職をお考えの方はご参考程度に。

 

まず,前提条件として転職には二種類あると思います。

 

①前向きな転職

②後向きな転職

 

です。

 

①は「海外で働きたい!」とか「もっと自分のスキルを向上させたい!」というポジティブな転職ですね。ただわたしの周りではこのような事例は見受けられなかったし,わたし自身も②に該当するのでこれは割愛します。ってかわかりません。そういうのはもっと意識高いノウハウ本とか読んで勉強してください。

 

さて,本題は②です。

これは間違いなく言えることなんですが,

 

転職なんてしないに越したことはないです。

(初めて色文字使ってみました。なんかこれ怖いですね)

 

いまの職場環境に(全てとは言わずとも)ある程度満足しているのであればわざわざ転職活動なんてする必要ないと思います。

転職活動って相当なエネルギーを要します。疲弊します。肉体的にも精神的にも。わたしだってできれば転職なんて面倒くさいことしたくなかったけど,このまま会社にいたら終わっちゃう…という危機意識が強く働いた末の苦渋の選択です。

 

転職サイトやらCMで謳っているほど転職って簡単じゃないし,自分で動かざるをえない部分も大きいです。よほど特殊なスキルを持っているとかコネクションがあるとかだったら別ですけどね。

 

さて,前置きが長くなりましたが,「いまの会社には耐えられないからどうしても転職したい!」というひとは,たぶんまず転職エージェントに登録すると思います。わたしもマイ○ビエージェントに登録していました。

 

でも,結局わたしはたいして利用しませんでした。

なぜなら…

 

使えなかったからです。ぜんっぜん。

 

一応エージェントに登録してからの流れをざっくり説明しますね。

 

①担当から希望職種や条件など話し合う「電話面談(平日・30分くらい)」の案内メールが来る。なお電話面談までにweb履歴書やらアンケートやらを作成してメールで送っておくことになる。これがなかなか面倒くさい。なぜなら同時並行でやってる現職で心が折れているから。心が死んじゃってるから。

②電話面談。事前に送ったweb履歴書をもとに,希望職種や勤務先,転勤の有無や賃金形態などの希望を伝えていく。わたしの場合ここが細かった(出版社しかヤダと言った)ため,あまりいい案件を紹介されませんでした。ていうか出版社って言ってんのに編プロ(編集プロダクション)を紹介してくんなよ。

③以降,求人情報(一回のメールでだいたい5件くらい)をメールで教えてくれる。気になった所があれば担当に伝えるとエントリーしてくれるようです。でも求人情報も自分で探したほうが良くね?という結論になりました。いらない求人情報はただのノイズでしかないし。結局わたしは一件も希望に沿う案件がなかったです。

 

ざっとこんな感じです。

なんか「転職エージェントに任せときゃオールオッケー!」みたいな雰囲気ありますが,実際ほとんどはあなたがやることになります。当然ですが筆記試験やら面接やらはあなたが行くことになるので,求人情報を探してくれる(精度も低い)以外エージェントが何をやってくれるのかまったく分からないのが正直なところ。でもそれって自分で出来ますよね……

 

あとは期間。

わたしの場合,エージェントに登録したのが2017年10月。ただ現職で手が離せない仕事が2018年4月まであったので,それ以降の転職になる旨伝えると「では年明けまで何もすることはありません」とのこと。なので実際に活動を開始したのは2018年1月からです。

 

さて,年明け。待てど暮らせど連絡がない。しびれを切らしてメールしても返信なし。一週間くらいしてシレッと「転職活動どうですか」みたいなメールが来る。「どうですか」ってなんだそれは。ていうか社会人として一週間返信しないのはどうなんだそれは。

お察しの通り,それ以降も同じように使えない求人情報を送りつけてくるだけの簡単なお仕事をしてくるだけだったので,「もっと以前に伝えた希望に沿った情報をください」と送るも返信なし。溢れ出す無能感。

 

「これはマズい!」となってくるわけです。こちとら人生かかっとるんじゃい!と思いたち,エージェントに頼らず転職活動を開始しました。幸い転職したい業界は「出版社」と固まっていたので自分でも簡単に情報収集が出来ました。

そっから学力試験と4回の面接を経て,3月にはいまの会社から内定が出ました。

 

運が良かったのは,一社だけしか転職活動をしないで済んだことです。

実は内定が出た会社しか転職活動をしていませんでした。というのも,無理だからです。体力的にも精神的にも。

 

面接は基本的には平日です。しかも9:00とか15:00とか。そうなると当然有給休暇を使うことになります。忙しい時期は休めないでしょうし必然的に無理になります。

しかもだいたい日時は相手が指定してくる(変更はできない)ので,その時間に外せない会議があったりするとやっぱり無理になります。幸いカブることはありませんでしたが,最悪会社に「風邪ひきました!」って連絡して面接に行くことも視野に入れていました。

 

「忙しすぎる!無理!転職する!」と言ってすぐに転職活動を開始しようとしても,面接の度に有給休暇を使うことになるわけですから「あ~面接の日は休めない~」となったり,実際無理というジレンマがあります。

ある程度余裕があるタイミングじゃないと転職すら出来ないわけです。

厳しい。。。

 

 

ダラダラと書きましたが転職ってこんな感じでした。

終わったからある意味あんなこともあったねー的に書けますが,当時(つったって数ヶ月前)は生きるか死ぬかの瀬戸際みたいな感じでした。

 

 

人生,なるべく楽して生きたいですね。ではでは。

生きてます

月に一回は書こうと思っていたブログですが、2ヶ月空いてしまいました。

元気ではないですが、生きてます。

 

なんで元気ではないかというと、何をしても満たされないからです。

さらに言えば、何もしたくないからです。何をしたいかわからないからです。

 

 

最近思ったのですが、わたしはすごくワガママなんだと思います。

たぶんわたしは環境的にはかなり恵まれているんだと思います。

実家は都内23区でアクセスが良くお金には不自由していないし、学歴は(相対的には)かなり良いし、すっごくブザイクということでもないし、身体的にも大きな病気はありません。

世の中にはわたしよりも恵まれていない人がゴマンといることでしょう。

 

じゃあなんでこんなに満たされてないのでしょうか。常にわたしは満たされない。死ぬまで満たされないと思います。

どんなに本を読んでも、どんなに映画を観ても、何も満たされない。何の意味もない。ただ役に立たない「知識」が蓄積されるのみ。

 

きっとわたしには穴が空いているんです。だから、どんなに「幸福」が流れ込んできても、どんどん漏れていってしまう。

穴が空いた欠陥品。それがわたしなんです。

 

欠陥品のわたしは何もできません。

他人の幸せをただ指をくわえて見ているだけ。ただし、その指からは血が出ています。

 

ああ。