冷たい水の中をきみと歩いていく

平坦な戦場で生き延びること

立てば百合,座れば百合,歩く姿は百合の花

にやら強いタイトルをつけてしまったが,急に百合が来たので(QYK)仕方がない。ところで「急にボールが来たのでQBK)」と言ってももう誰にも通じないような気がするが,気にせず進める。

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これは特段百合に限ったテーマではないのだが,「関係性」について,大学生の頃からずっと考えていることがある。「大学生の頃から」というのは,私が中高男子校出身であり,大学に入るまで異性を意識することがほぼ無かったというバックグラウンドも関係しているかもしれない。

 

そのテーマは「私は個別具体的な構成要素にはさほど興味がなく,両者の間に紡がれる関係性に興味があるのではないか」ということだ。つまり,私自身のものの考え方としてAとBという断片的な要素ではなく,A-B間の関係性をとにかく重視しているような気がしているのだ。極論してしまえば,A-B間の関係性が残存すればAとBが消失したとしてもいいのだ。

 

そしてその「関係性」というテーマは,最近Blu-rayを購入したリズと青い鳥でも再認識することになった。この作品は響け!ユーフォニアムという吹奏楽部員を描いた作品に登場する傘木希美(以下:希美)鎧塚みぞれ(以下:みぞれ)に焦点を当て,ふたりの触れると忽ち壊れてしまいそうな関係性を丁寧に描いたものである。

 

ここだけだと「ああまた百合か」と片付けてしまう人もいるかもしれない。事実,私もそれで劇場に足を運ぶのがだいぶ遅れた(今となっては後悔している)。というのも,漫画やアニメなどにおける女性キャラ同士の恋愛感情を描いた作品というものはそれこそ「また百合?」と言うレベルで溢れかえっているからだ。1クールにひとつは百合アニメがあり,漫画はテコ入れ的に百合展開を入れることで人気を博し,エロゲからは男主人公が消失し女性キャラ同士の繊細な物語を楽しむ作品が増えた。右を見ても左を見ても百合なのである。立てば百合,座れば百合,歩く姿は百合の花なのである。では『リズ』は百合なのか?と言われるとちょっと断言しかねる。いや,より正確を期すのであれば「限りなく百合に近い友情」とでも言うのだろうか,だからこそ惹きつけられるのだろうなと思う。

 

ここで憤る人もいるかもしれない。「そもそも百合ってのは『友情以上,恋愛感情未満』な関係性なんじゃねーのかよ!百合に近い友情ってなんだよ!!矛盾してるじゃねーか!!!」といった具合に。そう,この話をするために,まずは「百合」を定義づけないといけない。近年の百合作品の増加は必然的に百合世界の多様化をもたらしている。いわゆるマリア様がみてるにおける「タイが曲がっていてよ」的なオーソドックスな百合は王道だが,百合というのは常にアップデートされている概念であるのだ。めちゃくちゃダサい言葉で言えば,「百合2.0」ということだ。

 

 百合2.0,百合レッドオーシャンの時代で,しかしやはり百合を定義づけるとすれば「友情以上,恋愛感情未満」というのは未だにひとつの大きな基準であろう。往々にして「恋愛感情未満」という堤防は女のクソでかい感情によってぶち壊されていくが,この基準はまだ役割を失ってはいない。

 

この基準に照らせば,『リズ』における希美とみぞれは一点の曇りもなく百合である。では一体どこに疑義を差し挟む余地があるのか?実は希美が容易な解決を妨げているのだ。彼女の存在によって,『リズ』は多義的な見方をされることになる。つまり百合と紙一重の非・百合作品として受容されうるのだ。

 

希美は鈍い。いまや死語だが「ニブチン」なのである。みぞれの想いには気づけない。そもそも明るい性格で友達がたくさんいる希美と引っ込み思案な性格で友だちが少ないみぞれの共通項はいたって少なく,強いて挙げるならばそれは「楽器」くらいしかない。しかしその楽器も決してふたりの”原点”ではない。希美に誘われて吹奏楽部に入ったという”後付”である点は示唆的だ。「たくさんいる友達のうちのひとり」であるみぞれと「たったひとりの特別」である希美。当然その非対称性は歪を生み出し,事件を引き起こす。そしてその事件は両者の関係性に影を落としている。ここまでは完全に百合のそれだ。百合の一般常識と言ってもいい,両者の立場の違い。ギャル×オタクのような立場の違いによる感情のすれ違いは百合を百合たらしめる。勿論それは男女のNL(ノーマルラブ)についても言えることではあるのだが。

 

しかし希美は徹底的に鈍い。どれだけみぞれに想われようとも気づけない。周りから示唆されても気づけない。誤解を恐れずに言えば,みぞれが狂気的な偏愛であるならば,希美は狂気的な無関心なのだ。そしてその狂気の総量は希美がずっと上回っているように見える。いつまでもみぞれから希美への一方通行な想い。希美のそれは隣人愛とも言えるようなもので,その愛は皆に等しく注がれている。だが誰にとっても等しく優しい人というのは誰にとっても特別にはならない。誰をも愛しているようで誰も愛していない。

 

私は希美を見ていると普通であることを起源とする人物,空の境界黒桐幹也を思い出すのだが,きっとそこには「特別にならない」「普通」を媒介項としたアナロジーがあるのだろう。そして,普通であるがゆえに最も狂気を孕んでいるのが黒桐幹也であり,希美である。

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そしてその「誰にとっても特別にはならない」という壁を,クソでかい感情でぶち破るのがみぞれなのだ。それは『空の境界』とのアナロジーで言えば両儀式。そしてここが最も重要なポイントなのだが,それでもなお,最後の最後まで希美は鈍いままなのだ。そう,百合というからには両者の関係性に変化がなければならない(と思うのだ)。最初っから最後まで同じ関係性,というのは百合の許容範囲をいささか超えるのではないか,と思う。『リズ』はここを紙一重でかわしている。両者の関係性は,マクロな視点では互いの道を進んでいくという点で大きく変化しているが,ミクロな視点では変化していない。というか変化しているのだが,その関係性の変化はギリギリの地点,ボーダーラインの一歩手前で留まっている。ゆえにこの作品は百合と非・百合の境界線上にある。

 

さて,随分と長々と書いてきたがここで当初のテーマに戻る。誤解を恐れずに言えば,私は『リズ』の登場人物である傘木希美にも鎧塚みぞれにもそこまでの関心はない。ふたりに対してキャラ萌え!といったこともない。これは逆張りではない……と思う。ただひたすらに,その関係性を見ていたい。勿論,希美とみぞれを結ぶ名状しがたい関係性は当然,希美とみぞれの存在を前提にしている。だから論理的に言えば(因果律によれば),希美とみぞれが消失すればその関係性も消失するはずだ。ここで言う「消失」というのは物理的な消失というよりはAやBのような記号に還元されるという意味だ。そういえばつい先ほど,私は以下のようなことを書いた。

極論してしまえば,A-B間の関係性が残存すればAとBが消失したとしてもいいのだ。

 

記号化にともなう登場人物の消失。それにともなう関係性の消失。しかし,しかし。そこにわずかばかりの残り香があれば,たちどころにその関係性が私の眼前に立ち現れてくると信じてやまないだから消失しても構わない。私は必ず思い出すことができるから。あれこれウテナじゃん。

 

ところでねとらぼで宮澤伊織先生といとう先生が気になる記事があるのでこちらも掲載しておく。「これからの『百合』の話」をしており,百合の多様性やBLとの比較などとても読み応えがある記事であった。

nlab.itmedia.co.jp

 

終わり。

ディスコミュニケーションあるいは言葉のドッジボール

い先日,あまりにも強烈な異文化コミュニケーションを体験してしまったのでここに纏めておこう。言葉のキャッチボールならぬ言葉のドッジボール

 

私はありがたいことにサークルの先輩(新郎)の結婚式に招待していただき,二次会から参加してきた。おととい,土曜日のことだ。久しぶりに会うサークルの人もおり旧交を温めた……と言いたいところだが,どちらかと言えばただただ周りの雰囲気に圧倒されていた。いや,気圧されていたと言って良いだろう。”力”に。

 

私は,否私達は知らなかった。結婚式の二次会というのは,己の力のみを信じ日々その研鑽に励むクッソ強いマッチョな”本物のオス”たちがビール瓶をグビグビと一気飲みしながらFワードを連呼し叫び散らかす,力と力がぶつかり合う猛り狂った力比べの場だということを。

 

かたや招待されていたサークルのメンバーは男女ともに落ち着いた(オブラートに5重くらいに包んだクッソやさしい表現)人が多いため,正直完全に浮いていた。新郎新婦入場の時に拍手をする以外は,ひたすら本物のオス同士が角突き合わせて力比べしているのを口を空けて見てるしかなかった。ツーブロックのゴリラって本当にいるんだ……と驚嘆してしまった。

 

本物のオス「ウェーイ!!!いけいけいけ!!!(ビール瓶をグビグビと飲む)」

先輩「こういうひとたちって普段どこにいるんだろ……動物園?(ヒソヒソ)」

本物のオス「おまえここでナンパすんなよ!!!童貞かよ!!!!(肩パン)」

私「陰と陽,決して交わらないもの,科学と魔術が交差しちゃってる感じですね……(ヒソヒソ)」

 

アレここ高架下か?というくらい本物のオスの声量がデカすぎる(本物のオスなので当然である)ので,サークルの人と会話するのも一苦労であった(サークルの人はみんな声が小さい)。おかげでここ数か月で一番大きい声を出したので喉が痛くなった。まあ大体想像がつく通り,私達はさほどお酒も飲めない(本物のオスではないので当然である)ので,とりあえず色々食べていた。すると時折背後からすごい大声で新郎を野次る声が聞こえてくるので国会か!?となったりする。ちなみにその人は周りが誰も乗ってこないのに一人で延々とディスり続けるメンタルお化けだった。もしくはラッパー。

 

あとこれは今回得た気付きだが,ヒトの反応には3ステップある。数字が大きいほど反応が大きい。以下は私の勝手な命名だ。

①サイレント(無音)

②ハンドクラップ(拍手)

③シャウティング(叫)

 

そして本物のオスが②の状態の時,私達は①の状態。本物のオスが③の状態の時,私達は②の状態にあることが多い。経験がある人もいるのではないだろうか。陽キャの方々がワーッとかウェーイと叫んでいる時,陰キャの方々はただただ拍手をしていなかっただろうか。この3ステップにおいて,常に陰キャ陽キャのひとつ下の段階にいる。私はそういう光景を何度も見たことがある。結局陽キャ陰キャは魂のステージが違うのだ。魂の在り方が違う。どう取り繕ってもメッキは簡単に剥がれる。

 

二次会が終わる頃には延々と本物のオスの力比べを見せつけられてすっかり疲れていたが,ここでまさかの異文化コミュニケーションが発生した。本物のオスは帰ろうとする私(初対面)にいきなり通せんぼをしてきたのだ。私が本物のオスかどうか試しに来たのか?未開の地のイニシエーションか?私の中で一瞬のうちに色んな感情がグルグルと渦巻き,スッと消えた。すると「なんですか?」というまっ平らな声が出た。本物のオスは訳のわからない言語を発して道を空けてくれた。私は異文化に言葉が通じたことにいたく感動した。

 

外で他の人を待っていると,サークルの女性にめちゃくちゃ本物のオスたちが群がってきた。またしても異文化コミュニケーション。正直にすごいな,と思ったのは,人の無言に対して「何も言わないならオッケーっしょ!!!」と振る舞う彼らのマインドだ。そして一方的に「こいつの彼女は~」とか「キャバクラで~」とか「俺はN総研って会社なんですけど,知ってます?」とかありがたい情報を与えてくれる。なんて強いマインドなんだろう。一方私達は無言に対して「あっ……お気を悪くさせてしまってごめんなさい」と撤退してしまう。本物のオスのそのクッソポジティブなマインドは正直見習いたいなと思ったのだ。そして言いたいことだけ言って「銀座の相席屋行こーぜ!!!」と彼ら本物のオスは本物っぽい台詞とともにエスカレーターに乗って行ってしまった。たぶん銀座に相席屋ねーぞ。

 

エンカウントを避けてエレベーターで降りて夜景を見ようとしていると,二度あることは三度あるとばかりにまたしても本物のオスたちが出現。私達は無視を決め込んだ。目を合わせるとポケモンみたいにデレデレデレとBGMが鳴って戦闘に入ってしまうからだ。しかし彼らのクッソポジティブなマインドは砕けない。タタタッとこちらに駆け寄ってくる。普通に恐ろしかった。三度目の異文化コミュニケーション。ここは駅前留学NOVAか?

 

開口一番「これから三次会で一緒に銀座行きませんか?」。私はもう耐えられなかったので顔を背けて夜景を眺めていた。めちゃくちゃいい笑顔で笑ってしまっていたからだ。当方に迎撃の用意ありとばかりにこちらの誰もが拒絶のめっちゃ分厚いATフィールドを張っているにもかかわらず,容易にアンチATフィールドを展開してきたのだ。

 

「明日仕事なんで……」

「明日日曜っすよ!!!」

「忙しいんで……」

「何の仕事ナンスカ!?」

「はひ……」

 

これには驚いた。こいつバーサーカーじゃん。狂戦士じゃん。勝てないわ。だって手にしたもん全部宝具にしちゃうんだもんな。

 

長々と書いてきたが,本物のオスのマインドには見習うべきものがあるのは確かだ。相手がどう思っていようが口に出さないんだったら関係ねえ!!俺はこういう男なんだ!!!というその図太さは,掛け値なしに羨ましいなと思った。人生もさぞ楽しかろう。私がそうなれるとは到底思えないけれども。あと誤解しないでいただきたいのは,私はとても楽しかったということだ。めちゃくちゃ笑った。異文化に触れ合うことって楽しいことなので。なかなか蛮族(バルバロイ)の方々と触れ合う機会もないし。

 

写真は会場近くのお台場で見た夜景。文字通りレインボーなレインボーブリッジをバックに見る冬の花火も綺麗であった。

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タイトルは植芝理一さんの漫画『ディスコミュニケーション』から。

絵の描き込みが激しく,素晴らしい漫画。同作者の『夢使い』『謎の彼女X』もオススメです。

夢使い(1) (アフタヌーンコミックス)
 

 

終わり。

Down the rabbit-hole

つも何となく思いついたような内容のない話を書いているだけだが,今日は珍しく日記を書いてみる。タイトルで素晴らしき日々の序章を思い浮かべた人も多いだろうが特に関係はない。関係はないがちょっと前にフルボイス版をクリアした身から言うと,あの序章は2周目やると「あ~~~!!!高島ざくろ!!!」となり,感動もひとしおである。

 

◯11/23(金・祝日)

この日から公開されている京成電鉄旧・博物館動物園に行ってきた。14時からのツアーに申し込んでおいたのだが,どうやらツアー以外で入場しようとすると整理券が必要で,それは午前中に配布終了してしまったのだそうだ。おかげでせっかく来たのに入れないという人もたくさんいた。念のためにツアーに申し込んでおいて正解だった。

 

この駅は1997年に休止,2004年に廃止されたのだそう。駅の存在自体は親から聞かされていたため割と昔から知っていたが,もちろん中に入るのは初めてなのでウキウキしながらツアーガイドの後を付いていく。外装は国会議事堂っぽい。今年,駅舎では初めて東京都選定歴史的建造物に指定されたのだとか。

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重たい扉が開いて中に入ると,巨大なもふもふが現れる。ウサギのオブジェだ。Down the rabbit-holeみたいな感じなのだろうか,と思ったがどうやらこのウサギはアナウサギという穴を掘って暮らすウサギで,地下鉄をその巣穴に見立てたインスタレーション作品であるらしい。

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ガイドに促されるままに地下に潜る。Down,Down,Down……。何やら光が差していて神々しい感じになっている。何かサイレントヒル4で見た光景だ。両端の壁からゴーストが出て強攻撃をしてきそう。

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さて,そうこうするうちにプロジェクターで開業当時の写真のスライドが壁に映し出される。話が京成疑獄に及んだのでオッとなりちょっとおもしろい。ちなみにガイドは頭だけウサギのきぐるみをかぶっているので,歪みの国のアリス』のシロウサギっぽい。ウデ ウデ ウデ♪ウデはどこだろ♪」というやつだ。たぶんその場で歪みの国のアリスのことを考えていたのは私一人だろうというどうでもいい自信がある。

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階段を下っていくと少々広い踊り場のような場所に出る。そこでは今回のインスタレーション作品の趣旨でもある,博物館と動物園の展示がなされている。ガラスケースに入っているものは上野動物園にかつていたホァンホァンというジャイアントパンダの頭蓋骨。施設をまるまる使ったインスタレーション作品で,なかなかおもしろい趣旨だ。何となくホラー繋がりで『ib』を思い出していた。ゲルテナの絵はどこだろう?

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さらに地下に潜っていくと切符売り場があるが,そこには立ち入ることができなかった。ホームは見えないが,実際に電車が通る音が聞こえてくる。やっぱサイレントヒル4で見た光景だ。ちなみにこのホーム,3両編成の電車しか止まることができないらしく,いまの電車の規格ではまったく止まれないことになる。やはり駅としての復活はないとのことだ。文字通りの残当である。

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ツアー自体は正味30分ほどであったが,あっという間に感じられるくらい面白かった。写真ではわかりにくいかも知れないが,壁には閉業直前に書き込まれたと思われる落書きがたくさんあり,これまた歴史を感じさせる。

 

その後は上野を散策する。上野大仏や五重塔などを訪れてみると,上野という街は幼い頃から知っているつもりでも実際は博物館や美術館や動物園や不忍池アメ横くらいしか知らないことに気づく。言うまでもないことだが,一部を知っただけで全部を知った気になってしまうのは良くないのである。「一を聞いて十を知る」のではなく「一を聞いて十を知った気になる」のは色々な可能性を狭めてしまう。

やはり「いつも心に好奇心(ミステリー)!」ということで今回の記事の締めとする。

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いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)

いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)

 

 

終わり。

 

ハサミは切れぬが役に立つ

い先日の出来事。私のTwitterをフォローしているひとはそっちでも書いたことなので重複してしまうが,それだけ印象的な出来事だったのでブログにまとめておきたい。

 

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会社にて。

私「犬とハサミは使いようってことわざでも言うもんねー」

同僚「???……ははは……」

私「(ん……???)」

 

帰り道。

私「(なんだったんだあの微妙な反応は……なんか不安になってきた……おかしなこと言っちゃったのか???)」※オタク特有の脳内会議です

私「(ググる)」

私「(あれこれ……ラノベのタイトルじゃん!えっウソ…『馬鹿とハサミは使いよう』ってのが正しいことわざなんだっけ!?えっウソめっちゃ恥ずかしっ)」

私「(ウワ,これあれだ。蒼井そら蒼井優を間違えちゃったみたいな。なんか銀魂でも言ってたなそんなこと……。椎名りくと椎名そらと椎名うみを間違えちゃったみたいな。ていうか陸・海・空全部そろっているのか椎名……へきるもいるし林檎もいるしまゆりもいるし誠もいるし桔平もいるし椎名ってすごいな)」

あっ,家着いた。

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いやビックリした。何がビックリしたかって,自分の中で無意識のうちにいつの間にか言葉が置き換えられていたということにである。「馬鹿」と「犬」で。バカ犬じゃん。

dic.pixiv.net

……まあこういう覚え違いって他にも色々ありそうだが,それはそれで長くなりそうだし本題ではないのでやめておこう。

 

さて,この「馬鹿とハサミは使いよう」。ことわざの意味としては以下のようなものだ。

ばかとはさみはつかいよう【馬鹿と鋏は使いよう】

切れない鋏でも,使い方によっては切れるように,愚かな者でも仕事の与え方によっては役に立つ。

大辞林 第三版,三省堂

 

そこで気になることがある。「馬鹿」はさておき「ハサミ」は割と役に立ってるでしょ!ということだ。切れないハサミよりももっと役に立たないものはいっぱいあるだろうと。これが絶望先生だったらこんな具合に社会派なネタ大喜利が始まるところだろう。

 

望「たとえばパソコンを使えないのにサイバーセキュリティ担当の大臣」

奈美「うわ役に立たなそう」

可符香「いや役に立ってますよ。あの大臣は『メディアリテラシーが低いと大変』ってことを身をもって教えてくれてるんです!立派に職責を果たされています!」

 

 

 まあそれは置いておいて,ハサミって結構すごい。

漫画やアニメでも映画でもゲームでもハサミは大活躍しており,数え上げればキリがないくらい,ハサミは作品に浸透している。ぱっと思いつくものを以下に羅列してみよう。

クロック タワー

クロック タワー

 
キルラキル 1(通常版) [DVD]

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Dream Tech ローゼンメイデン 蒼星石 約150mm PVC製 塗装済み完成品フィギュア

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シザーハンズ (字幕版)
 

 ……ぱっと思いつくだけでこんなにある。これはすごいことだ。切れないハサミは切れないハサミで,スプラッターホラー的には映えるだろうし。コンパスの針で執拗に刺して戦う!とか学校にあるデカイ三角定規の尖ったとこで殴って戦う!とかやっても地味だし。それはそれでkashmir先生の漫画っぽくて面白い気もするけど。

 

ていうかこのくだり,◯本の住人あたりですでにやってそう。

○本の住人 1巻 (まんがタイムKRコミックス)

○本の住人 1巻 (まんがタイムKRコミックス)

 

 

じゃあハサミより使えないものってどんなのがあるかな……文房具で言えば答えは一択,クリップだ。クリップはクリップでもゼムクリップ。

↓こういうやつね。

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 なにを隠そうわたくし,ゼムクリップが嫌い。私のGoogle検索履歴は「ゼムクリップ すぐ取れる」「ゼムクリップ 使えない」「ゼムクリップ 邪魔」などネガティブなワードでいっぱいだ。だってあれだ,この形状なんだから,紙を縦に留めてたら他の紙がはさまってピン!って取れてどっか行っちゃう。それで書類が散逸しちゃう。一時的に会議用に配布する資料を留めておくにはいいけど,長期的に保存する書類をこんなあやふやなもので留めちゃ駄目でしょ。だからゼムクリップは嫌い。というよりは思考停止してなんでもゼムクリップで留めちゃえ!って人が嫌いって方が近いかもしれない。そう考えるとゼムクリップ自体には罪はないのだ。罪を憎んで人を憎まず,もとい人を憎んでゼムクリップを憎まず……。

 

一方,私はダブルクリップはそこそこ好きだ。なぜって書類が散逸しないから。レバー部分がちょっと邪魔だしかさばるけど,力強く束ねてくれるのは大変重宝だ。黒に銀の無骨なデザインが格好良い。メタリックな全身銀のやつ(レア)はヤバクソ格好良い。職場でも見つけるたびに集めているので,私のデスクには大量にコレクションされている。

↓こういうやつね。

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あとたまに見かけるふざけてんの?ってレベルでクソでかいゼムクリップ。15cmくらいあるかな?あれは最高。主にビジュアル面の面白さで。Amazonとかアスクルで画像が見つからなかったのでブログ中では画像はないんですが……。高校生の頃に池袋のSmithって雑貨屋さんで買ったんだけどどっか行っちゃったなあ。使いみちないし。あと同じようにクソでかい安全ピンとかも最高。あれは服を留めるのにも使えるし。

 

長々と何が言いたかったかって言うと,ゼムクリップさんのことこき下ろしたけど,どっちかって言えばゼムクリップさんを適した場面で使えない人が悪いわけで。一時的に留めておくにはかさばらなくて便利なわけだし,適材適所って大事!という話。100万回言われてきたような話だけど,「消極的」とか「文句ばっかり」っていうネガティブな特徴だって見方を変えれば,前者は「色んな意見を受け止めてくれる」となるし後者は「よく人を観察している」となる。だからそれぞれに適した場所ってのが絶対にあるんだよな,なんて思ったりする。本当は世界に居場所がない人なんていない。

 

まあうまくまとまったところで終わり。

タイトルは言うまでもなく『逃げるは恥だが役に立つ』をオマージュしただけ。それではまた。

 

 

 

 

思いますじゃないんだよ,と彼は言った。

くの人の口癖で「~だと思います」というのがある。「違うかも知れないので断言はできないが多分そうだ」という,間違っていたときのための一種の消極的・予防線的な言葉ともとれる。とはいえ,実際のところは予防線だとか何だとか考えることなくほぼ無意識に言っていると思う。……まあこんな具合にだ。

 

似たようなニュアンスに「とか」というものがある。以下に例を示す。

「ほら,わたしとか結構流行好きなひとだから~」

イラッとするひともいるだろう。ここでのイラッとポイントは大きくふたつある。

①「わたしとか」の「とか」ってなに?登場人物は他に誰かいるの?

②「流行好きなひとだから~」の「ひと」ってなに?「流行好きだけど『ひとではないなにか』がいて,わたしはそれではない」という含意があるの?

 

といった感じだ。①の「とか」は文語に置き換えると「等」「など」が当てはまる。公文書でよく見られる表現だ。わたしも前職では教科書という,ある意味公的な書籍の編集部にいたため「等」「など」は愛用していた。揚げ足を取られないためにだ。世の中には特に政治的な分野となると他人の揚げ足取りに必死なひとがいて,自分の「研究成果」を発表するために問い合わせてきたりする。「その政治的な記述にはこれも含まれているはずだ!誤記じゃないのか!」とかという揚げ足取りにも「ここに『など』と書いてありますので……」と逃げることができる。大変便利な言葉なのだ。

 

さて,このブログで触れるのは何度目になるのかわからないが,タイトルの「思いますじゃないんだよ」と言っている「彼」とは前職の上司だ。氏は大変言葉に敏感なひとだったため,氏の下で働けた時間は(ポジティブに言えば)言葉に対する感性が鍛えられたと言える。この種の感性というのは出版社では必須なもの,と言い切ってしまってよいだろう。

 

たとえば。現在の進捗状況を報告するにあたり「200ページ目までは今週中に印刷所から出てくると思います」と言うと,彼は原稿を見ている顔を上げてわたしを睨み付ける。普段から目付きが悪いので睨み付けているわけじゃないのかもしれないけど,そう見える。そして聞き取れないくらい低い声で「思いますじゃないんだよ」と言う。そして「貴方の主観はどうでもいいんだよ。客観的事実を述べなさいよ」と続く。

そう。たしかに「思います」じゃないのだ。なぜなら報告というものは客観的事実であって,「思う」ことではないからだ。報告の中でわたしは自分の意見を言ったわけではない。「200ページ目までは今週中に出てくる」と印刷所のひとに確認しているのだから,それは多少の変動はあれども客観的事実だ。ならば主観を意味する「思います」と言うな,ということだ。内容が正しいのは当然であるが,伝達する言葉という形式にも気をつけなければならない。それは文章を扱う編集者という仕事からしても当然心がけるべきではあるのだが,しかし悲しいかななんとなく口をついて出てしまうこの言葉。その度にギロリと睨み付けられ「思いますじゃないんだよ」がくる。そこではじめて気づくことができた。形式にも大きな意味があったのだ。

 

特に学生の頃であるが,わたしは「在野」というものに対して強いあこがれがあった。政府お抱えの研究者よりも在野の研究者の方が格好良い。それは明治政府における大久保利通征韓論で下野した西郷隆盛の関係にも通じる部分があろう。昨今ブームと言われる南方熊楠も同じだ。だからそれを表す「在野精神」という言葉に興奮したし,そういう想いもあって在野精神が旺盛だと言われる早稲田大学に進学した。いまもその想いを完全に否定はしない。ただ当時のように神聖視はしていない。在野が絶対だとは思っていない。

 

政治でも,学生の頃はとにかく在野であるリベラル・左翼が正しいと思ってきた。政府はいつだって権力にズブズブで,保守・右翼はナショナリズムの塊で反知性主義の極みだと唾棄してきた。実際,リベラル・左翼はいつだって正しいことを言っているのだ。それが実現可能であるかどうかは別にして。それは現実を顧みていない理想論に過ぎないのだ,ということをここ数年で痛感し,やはり彼らを在野だからと言って絶対視するのはやめた。

 

さて,在野に対する憧れとは何だったのだろうか。それはきっと,組織や出世などの「形式」を重視せずにただ愚直に「内容」を追究せんとするその姿が,バンカラであり婆娑羅であり,格好良いと感じるゆえだったのだろう。国や組織の言ってることは格式張っててダセェ。おれはおれだ。みたいな理屈があったのだろう。城山三郎氏の著作で知った「粗にして野だが卑ではない」という格好良い言葉は,いまでもわたしの中で大きな意味をもっている。

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯 (文春文庫)

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯 (文春文庫)

 

 

だからいまとなって感じることは,形式なるものは必ずしも「うわべばっかりの格好つけ!」ではないのだということ。「形式」と「内容」は二項対立の対局に位置するものではなく,どちらが正しいとか間違っているとかではなくグラデーションを持っているのだということ。「これは悪だ!」「これは善だ!」と快刀乱麻を断つようにクリアカットに物事を断定することは簡単だが,それは思考放棄に等しいし,同じようなひとばかりが周りに集まってくることになる。その中でお山の大将になるのは気持ち良いのかもしれないが,わたしはそんなことには魅力を感じられない。結局の所,借り物ではなく自分の心で考え自分の言葉で語り伝えるしかないのだろう。もちろん最初は借り物でもいい。しかしそれをだんだん自家薬籠中の物にしていくことこそが肝要なのだ。何やら偉そうなことを書いているがもちろんわたしだって未熟者であり,そのためには日々インプットを欠かさないようにしなくては,と感じる今日此の頃であった。

 

ところでタイトルでへたくそなパロディをするのも難しい。引き出しが乏しいので。一応これをイメージしたのだが……。

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

 

 ハヤカワ文庫SFは黒の背景が格好良い。オタクは黒色が好きなので。まあそれは『バーナード嬢曰く。』で何度も言われてるけど。

バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)
 

 終わり。

 

夢日記(夢オチではない)

を見た。

 

夢の中で私は高校生だった。どうやら何かに追い立てられているようだった。それが何であったかは分からない。しかしその異物感は私を追い詰め,数日前まで滑らかだった日常の歯車にはざらざらした砂が混ざりこみ,私の心を日々やすりがけしていった。穏やかな日常はあっという間に崩壊し,すべてが怖くなり次第に授業に行けなくなっていった。そしてテストも受けられず,落第し,人知れず高校を退学した。高校を去るその日,誰も私を見送ってくれはしなかった。

 

ある日の教室。そこに私はいない。教師が名簿に目をやる。そこに私の名前はない。私は最初から存在しなかったかのように,記録から抹消されていた。そしてかつて友人だった彼らは私がいなくなっても,何一つ変わらない青春を謳歌していくのだった。

 

数年後,Facebookで友人が結婚したことを知った。友人は一流大学を出て一流企業に勤めていた。幸せいっぱいの満面の笑顔の投稿。順風満帆な人生。かたや私は無職でひきこもりだった。コメントに「おめでとう」と入力して,結局消した。せっかくのめでたい投稿に私からのコメントなんて不吉だろうな,と考えたからだ。そういうふうに卑屈に考えてしまう自分が情けなくて,涙が溢れて止まらなかった。

 

さらに数年が経ち,どこだろう,私は座敷牢のようなところにいた。光の差さない,じっとりとした地下。私はじっと黙って下を向いていた。ただただ下を向いていた……。

 

そんな夢を見た。嫌な汗をかき,久しぶりに悪夢を見たなという実感があった。時計を見ると時刻はまだ朝の4時半。しかしすっかり目が醒めてしまった。それが今日のことだった。

 

なんでこの夢を覚えているかというと,スマートフォンのメモ帳に残っていたからだ。私はちょこちょこ夢を記録してログを残している。というわけで今日は夢のことを書いていく。DreamというよりはNightmareのほうの。

 

いままでで一番ショッキングだった夢のことはまだしっかりと憶えている。今年の1月くらいに見た夢だが,あまりにショッキングだったので起きてすぐノートに書き散らかした。そのおかげで鮮明に記憶に残っており,いまでもしばしば蘇ってくる夢だ。

 

夢の中で私は王女だった。豪奢なドレスを着てたくさんの家来を傅かせる王女様。舞台はふしぎの国のアリスのようなおとぎの国(そういう設定だったのだから笑わないでほしい)。ある日,王様が何者かにさらわれていなくなる。王女様こと私は,父・王様を探す旅に出る。まあ言ってしまえばよくある冒険譚,のはずだった。

 

しかし割と序盤で王女様は殺される。敵に斧でずたずたにされる。それはそうだろう,取るものも取りあえずお城の外に丸腰で出てきたのだから。RPGの勇者だって最初っからもうちょっとマトモな装備をしている。そこで物語はバッドエンドなのかと思いきや,王女様は生きていた。どうやら王女様は不死だったのだった。物語が進むにつれ,刀で切り裂かれたり棍棒で叩き潰されたり銃で吹き飛ばされたりと次第にヒトの原型を失ってゆくが,王女様は死なない。死ねない。しかし痛みは感じるので,泣くように痛い。喉にこみ上げる血に咽び泣き,全身を刺し貫く痛みに泣き叫びながら王様を探し求める。豪奢なドレスは薄汚い血みどろの布片と化し,見目麗しい御姿は醜い肉塊に変わり果てた。その泣き声は世にもおぞましく,むしろ鳴き声と呼ぶにふさわしい。もう誰もこのバケモノを王女様だとは認識できない。

 

そして血塗られ呪われた長い旅路の果てに,ようやく王女様は王様を見つけることができた。廃工場のような場所に監禁されていた王様に向かって,一心不乱に突き進む。敵の槍に貫かれようとも,弓矢に射抜かれようとも,血へどを吐きながら手を伸ばす。しかし愛すべき王様との再開は,彼の絶叫と絶望と拒絶によって迎えられた。その絶対的な拒絶からすべてを理解したバケモノは,その時初めてあきらめた。そして誰にも祝福されることなく,深い絶望の中でその呪われた生を終えた。誰も救われず,誰も救わない物語……。

 

と,目が醒める。

自分で言うのもなんだけど何だこの夢。こわいわ。沙耶の唄要素もあり,HELLSING要素もあり,まあ自分が感じてきた色々なもので構成されているのはわかるが,史上最低の悪夢だった。せめて最後は王様が抱きしめてその胸の中で死んでいく,とかあるだろう……。

 

精神的に追い詰められている時にはやはり悪夢を見やすいのだと思う。さっきの夢を見たのは今年の1月。仕事も忙しく,以前にブログに書いたことのある上司・S氏ともうまくいかず,転職やら何やらで相当憔悴しきっていた時期だった。あの頃の絶望的な日々があったからこそ,いまの平穏な日々はある。

 

◯S氏とのことは以前に記事にしたことがある

trush-key.hatenablog.com

 

しかし今日はなんで悪夢を見たのかよくわからない。なぜって,いまは割と人生が楽しいから。これまでの人生で,こんなに情緒が安定している時期はいままでなかった。いままでは,いつだって不安があった。いつだって誰かにおびやかされていた(ように感じていた)。誰かに傷けられないように予防線を張るのに必死になっていた。楽しいことをしていても,ふと冷静になると憂鬱な気持ちが襲ってきた。でもいまは不安がない。確かにジェットコースターのような激しさはないけど,観覧車のように安定した毎日がある。そしてそんな安定した心地よさにふと穴が穿たれて,悪夢がドロドロと浸入してきたような感覚がある。悪夢の内容はどうでもよくて,「人生が楽しい(はずな)のに悪夢を見てしまった」という事実にショックを受けていてるのだ。

 

だから今回も,楽しいことが小さな穴をキッカケにまた終わってしまうのかなと感じてしまったりしている。「蟻の穴から堤も崩れる」ということわざは言い得て妙なものだ。

 

うーん,夢オチだったら良かったんだが,文字通りオチもない。

 

終わり。 

リズと青い鳥文庫

場版『若おかみは小学生!』を観てきた。

www.waka-okami.jp

 

10/19(金)からTOHOシネマズでの上映が増えて(上野・新宿・日本橋・日比谷あたりでも追加された)より観に行きやすくなったので,まだの人は絶対観に行ったほうがいい。さすがに文部科学省選定作品(少年・家庭)だけのことはある名作だった。

 

感想は色んな人がすでに書いているしネタバレになってもアレなので詳述しないが,とにかく演出や描写が最高だった。よく言われていることであるが実写・アニメを問わず名作に出てくる食事というのは本当に美味しそうで,卵焼きの描写など珠玉であった。私は普通に劇場で「おっこ……おっこぉ……」と主人公に感情移入しすぎてマジ泣きする26歳成人男性になってしまったので,近いうちにまた観ることになると思う。歳を増すごとに死にまつわる作品や死そのものに触れる機会が増えていくからなのだろうか,最近は人が死ぬシーンを見るだけでもう涙腺崩壊してしまう。このままのペースだと10年後くらいには涙腺ガバガバすぎて一日中泣いているかもしれない。文字通り主に泣いてますになってしまいかねない。

 

さて,本題はタイトル通り青い鳥文庫についてである。というのも『若おかみは小学生!』の原作は青い鳥文庫であるからであるのだが,ちなみにタイトルの『リズと青い鳥』についても少し書くと,最近やっていた立川シネマシティの極上音響上映を観に行った。紙をめくる音でさえ聞こえる静寂な環境でのふたりの少女のあまりにも繊細な心理描写や触れると壊れてしまいそうなその関係性に胸を締め付けられ,完全にこれ(以下画像参照。美味しんぼ四万十川の鮎を食べて感動している京極さん)になってしまったので,すぐさま台本付きBlue-rayを予約したのは言うまでもない。

 

◯完全にこれになってしまったやつ

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余談だが,私は会社で「映画研究部」という部に所属している。活動内容は月に一回メンバーで会社の補助金を使って映画を観に行き,焼き肉を喰っているというわかりやすいものだ。その活動で5月には『リズと青い鳥』を観に行ったらしい。会社のメンバーで。30代・40代のオッサンたちが。ふたりの少女の壊れてしまいそうな関係性を。観に行ったのだそうだ。私は今の会社に6月に入社したので,後から「5月に『リズと青い鳥』って映画を観に行ったんだけど,女の子同士の淡い恋愛がよくわからなくてみんな困惑してしまった」という感想を聞いて爆笑してしまった。

 

さて話が無限に横道にそれてしまうが,そろそろ本題に戻る。青い鳥文庫,みなさんは読んだことあるだろうか。私と同世代(1992年生まれ)くらいの人は結構読んでいたのではないだろうか。

 

小学生の頃,私の周りでは『パスワード派(パソコン通信探偵団事件ノートが好き)』なる一派と夢水清志郎派(名探偵夢水清志郎事件ノートが好き)』なる一派が存在し,「こっちのが面白い!」「こっちのが楽しい!」と常に互いを牽制しあっていた。実際どっちも面白いんだけどね。子どもってどうでもいいことで優劣つけたがるからまあそういうことになる。

私はといえば『名探偵夢水清志郎事件ノートシリーズ』が好きだった。基本はゆるいミステリーなのだが,たまにシリアスな話もある。最後に読んだのは15年以上前だが,『機巧館のかぞえ唄』の最後の方,亜衣が欄干で倒れてからの幻想的なシーンは強烈で,かなり印象に残っている。あと『あやかし修学旅行』のドタバタ感は最高だった。これを読んだ小学生の時分,「修学旅行って楽しそう!絶対に行きたい!!」と思ったものだが,豈図らんや,小学校にも私が進学した中学校にも高校にも修学旅行というものは存在しなかった。中学校と高校は「修学旅行なんぞわざわざ学校が決めることでもないので各自勝手に行きたいところに行け」という感じだった。そういう校風なので中1の頃の遠足ですら現地集合・現地解散だった。いやいいんだけども。私は修学旅行を一生経験することなく,したがってみなさんが修めてきたような学を修める機会もないというわけなのだ。 

パスワードは、ひ・み・つ―パソコン通信探偵団事件ノート〈1〉 (講談社 青い鳥文庫)

パスワードは、ひ・み・つ―パソコン通信探偵団事件ノート〈1〉 (講談社 青い鳥文庫)

 
そして五人がいなくなる 名探偵夢水清志郎事件ノ-ト (講談社青い鳥文庫)

そして五人がいなくなる 名探偵夢水清志郎事件ノ-ト (講談社青い鳥文庫)

 

 

話をまた戻すと,作者のはやみねかおる氏自体も好きだったので,中学生くらいの頃に同作者の『虹北恭助の冒険』を読んでいた。響子ちゃん可愛い。

少年名探偵 虹北恭助の冒険 (講談社ノベルス)

少年名探偵 虹北恭助の冒険 (講談社ノベルス)

 

しかし普段互いに牽制しあっている『パスワード派』『夢水清志郎派』の両派がその手を携え,互いへの理解を深めるときがやってくる(書きながらテコンダーなんちゃらの一コマを思い出した)。それが『いつも心に好奇心!名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団』である。これは青い鳥文庫20周年を記念して行われた『パスワード』と『夢水清志郎』の競作であり,言うなれば永年に渡るきのこたけのこ戦争の終結である。あとセ・リーグパ・リーグ交流戦みたいなもんである。まあ野球知らないからよくわからんけど多分そんな感じじゃないか。

いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)

いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)

 

 

あと『青い鳥文庫』で印象的なのはFシリーズ森博嗣じゃないよ。よりSF色落強い作品が出ている。枠が青くなくてオレンジ色。ちょっと平凡社ライブラリーっぽいな。これも面白かった。小松左京とか筒井康隆の作品が結構出ているのも特徴だろう。

時間砲計画 (講談社青い鳥文庫)

時間砲計画 (講談社青い鳥文庫)

 
空中都市008 アオゾラ市のものがたり (講談社青い鳥文庫)

空中都市008 アオゾラ市のものがたり (講談社青い鳥文庫)

 
三丁目が戦争です (講談社青い鳥文庫)

三丁目が戦争です (講談社青い鳥文庫)

 

懐かしさにまかせていっぱい書いてしまった。

終わり。

くだらないの中に

まさらなのだが,最近Netflixで『水曜どうでしょう』をよく見ている。実はいままでちゃんと見たことはなく,たまにTOKYOMXを見ていると異様に画質の悪い番組の再放送がやってんな……くらいにしか思っていなかったのだ。なんか大泉洋が出てんだっけ?確かダーツ投げて旅するやつだっけ?バスに乗って旅するやつだっけ?違うっけ,みたいなぼんやりした印象しかなかった。

 

水曜どうでしょう』は基本的に大泉洋さん,鈴井貴之さん(ミスター),藤村忠寿さん(ヒゲ),嬉野雅道さん(うれしー)のおっさん4人がわちゃわちゃしたり喧嘩しているだけの番組だ。企画はとにかく適当で,西表島で虫を捕るつもりがウナギを釣ることになったり,車に乗って各地の甘い物の早食い対決をしたり,カブに乗って羽田から高知まで向かったり。西表島では「魚が逃げるから」という理由でライトを全て消した真っ暗な画面でタレントが寝っ転がりながら夜釣り(寝釣り,というかマジ寝)をしている(テロップしか見えない)という放送事故スレスレなことをやっていて,ううむこれはすげえなと唸らされた。

 

ところで私は会社のすぐ近くに住んでいるので昼休みにはよく帰宅している(その際の俊足さったらかなりのものだ)のだが,『水曜どうでしょう』は一話だいたい23分くらいなので,ご飯を食べながら見ていると時間的にちょうどよいのだ。昼休みは大泉洋さんとミスター,ディレクター陣との掛け合いに笑わされ,EDテーマ「1/6の夢旅人」に送り出されながら会社に戻る生活を送っている。道中「ぷっ……」と思い出し笑いしながら下を向いて歩いているのは言うに及ばずといったところだろう。

 

つい先日なんかは昼休みに『水曜どうでしょう』でひとしきり笑って会社に戻ったら,となりの部署にいるガタイのいいおっさんが水曜どうでしょうTシャツを着ていて,普通にお茶を吹きそうになってしまったし,なにやらひとりで感動してしまった。

 

で,『水曜どうでしょう』を見ていて,これまたいまさらながら気付いたことがある。

私はとにかくおしゃべりが好きだ。とりわけくっだらね~マジで何の意味もね~おしゃべりが死ぬほど好きだ。

 

水曜どうでしょうの掛け合いが好きだ。サンドウィッチマンのコントが好きだ。アンジャッシュのコントが好きだ。オードリーや星野源さんのオールナイトニッポンが好きだ。匿名ラジオ*1トークが好きだ。月ノ美兎*2トークが好きだ。

 

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学生の頃を思い返しても,一番楽しかったのは誰かとくだらないことを話している時だった。内容は何だっていい。くだらなければくだらないほどいい。どうでもよければどうでもよいほどいい。丁々発止の掛け合いができると,とにかく楽しかったものだ。

 

色々なことを思い返す。中学高校はテニス部や生徒会に入っていたが,それ以上にグダグダと教室でくだらない話をしていたことばかり思い出す。ただ,内容はほとんど思い返せない。どうせアニメとかゲームとか漫画とかの益体もない話に花を咲かせていただけなのだ。でも気がつくとすっかり時間が経っていて,帰ろうか,となる。テニス部は週何回来てもいいみたいな緩さがあったので入部したみたいなところもあるし,それよりもゲームセンターのクイズマジックアカデミーが忙しかったので,不真面目な部員だった。生徒会では会計を務めていたが,とにかく生徒会室に漫画をめちゃくちゃ持ち込んで読んでいた。……そういえばあれは処分されてしまったのだろうか。いまでは知るすべもない。

テスト期間は授業が午前で終わるから,サイゼリヤやガストに行って勉強会という名のおしゃべりを延々としていたり,テスト後の打ち上げは中華料理店でずっとおしゃべりしていたりと,いつもよりも多くおしゃべりしていた。いつもよりも多く笑った。その時間は全く何の意味もないが,とにかく楽しかったし,とても大事な時間だった。

 

大学に入ってもほとんどそんな感じだった。趣味の合うひとたちとのくっだらね~おしゃべり。部室に居座り,笑いすぎて過呼吸になるほどにいっぱい笑った。部活やボランティア活動に熱心に打ち込んだりしてるひとを尻目に,私は狭い部室でくだらない話をし続けて笑っていた。

確かに私は何かに熱心に打ち込んだりはできなかったけど,別にそれを後悔なんかしていないし,やりたくないことはやらなくていいと思う。色々活動を広げようと思った時期もあったが,結局自分には向いていないことも分かってしまった。別に打ち込めるものがなくたって,日常のくだらなさに面白さを見いだせれば,それって最高なんじゃない?

 

くだらね~ことが大好きという価値観は,いまも基本的に変わっていないんだろうなと思う。社会人になった私は,会社で隣の席の人(同い年・男)にめちゃくちゃちょっかいを出している。なんていうか,私がいる職場は基本的に一人の作業が多くて静かなので,そのうち飽きておしゃべりがしたくなってくるのだ。彼には好きな漫画を押し付け貸したり,わかりにくいうえにどうでもいい皮肉を言ったり,ハマっているゲームのキャラの魅力を延々と語ったりしている。彼は内心ウゼェな……と思っているのかもしれないが,いちいち彼が反応してくれるので話しかけてしまうのだ。ていうか自分で言うのもアレだが最後のは普通にウザいな。ちなみに最近は『素晴らしき日々』の橘希実香さんのよさを延々と話していた。

 

◯橘希実香さん

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今日はなぜだか忘れてしまったが拷問や処刑の話で盛り上がってしまった。冷静に考えて,隣の部署から「ファラリスの雄牛」とか「アイアンメイデン」とか聞こえてきたら普通に嫌だろうな。隣の部署の人たちすみません。

 

……あー,特にオチはない。タイトルは星野源さんの『くだらないの中に』から。まさにこのブログ記事のタイトルにピッタリだ。くだらないの中に大切なことがある。ところで意外と思われるだろうが,私はかなり星野源さんが好きだったりする。

まあ『水曜どうでしょう』もオチはないし,いいでしょ。 人生適当に生きましょう。

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人よ,幸福に生きよ! 

 

終わり。

 

 

*1:ARuFa氏とダ・ヴィンチ・恐山氏によるネットラジオ番組。全く無い話を「あるある~」と盛り上がる完全に虚無な空間が広がっている。

*2:バーチャルyoutuber。清楚な見た目と裏腹なオタクトークがウリ。企画力がすごい。可愛い

時には昔の話を

し前に大学の先輩たちと飲んだ時に話したことが,いまだに胸の中でリフレインしている。

「大学生には戻りたくないね。」「完全にそれ。」

 

世間的には「学生に戻りたい!」「あの頃はよかったなー!」という話はよく聞く。でも私は戻りたくなんかない。これっぽっちも。なんでだろう。

 

こんなこと言うと「イジメられてたの?」と心配されるかもしれないが,そんなことはなかった。そして,学生の頃がつまらなかったなんてことも全く無い。

確かに学生時代を通じて友人は少なかったが,友人が多い人間というものを根本的に信用していないので,その点では私は私を信用している。自己肯定は大事。

 

交友関係も含めたありとあらゆる関係において,薄っぺらい関係なら最初からいらんわ。というのが基本的なスタンスだった。最初っからそんなこと言わずに相手のことをもっと知れば仲良くなれたかもしれないじゃん!というのは確かに一つの真理だが,今回はご縁がなかったということで,また来世で。じゃーね。なんて考えている。

 

じゃあなんで学生の頃に戻りたくないのか。答えは明白だ。

 

あの頃常に頭にあった,「何かしなきゃ」「何者かにならなきゃ」と焦るばかりで,でも何もできずに腐っていく感じが,とても怖くて気持ち悪かったからだ。

頭に銃口を突きつけられているような恐怖感。いますぐ動き出さなきゃ死んじゃうんじゃないかという焦燥感。何かをしなければ,というマイナス方向の衝動にただ突き動かされていた。

 

その衝動は日に日に膨大していき,自由な時間が多い大学生の頃に極大値となった。そしてそれに突き動かされるままに,「これは私を変えてくれるかもしれない。」と思って色んなものに手を出した。とりあえず旅行して全国47都道府県を回ってみた。テニサーに入ってみた。色んな飲み会に参加してみた。意識高い講義に参加してみた。ボランティアもやってみた。NPOもやってみた。神信じてないから宗教とかはやってないけど,色んなことやってみた。

 

色んなことやってみた結果,どうだ?私は変わったか?否,何も変わってなどいない。何もできなかったし,何者にもなれなかった。結局のところどうしたって,魂の在り方は変えられやしないんだ。いくら経験を積んだからって,いくらインドに行ったからって人間の本質,魂の在り方は変えられない。ジタバタしてみたって仕方ない。私は友達100人出来ないし,仮に出来たとしても嬉しくもなんともないだろう。

 

じゃあ,こんな私に誰がした(昔のドラマではない)

 

それはまぎれもなく私だコブラではない)全責任は私にある。

 

いっそのこと,神様とやらをを信じられればよかったのだ。全責任を神になすりつけられればよかった。池袋のブックオフに宗教勧誘がよく出没することは有名だが,ご多分に漏れず私も勧誘されたことがある。人生に悩んでいるように見えたのだろうか。そしてなんか面白くなってしまい,勧誘のオッサンに連れられて一回喫茶店まで行ってみた。でも結局,終始「でも神いなくないですか?」と繰り返す私に嫌気が差したのか,オッサンは勧誘をあきらめた。コーヒー一杯で2時間くらい「神はいるのか」などと意味不明な問答を繰り返す経験は,後にも先にもないだろう。まあ加藤登紀子はコーヒー一杯で1日過ごしていたようだが……

 

愛なき時代に生まれたわけじゃないが,色々なものを信じることができずに生きるということは,それはそれで辛いものだ。

ただ一つ,確実に言えることは,ミステリーでの私の立ち位置は奇跡を起こす的なオッサンに「ふん!そんなもんはまやかしじゃわい!」と捨て台詞を残して後日遺体で発見されるやつということだ。

 

そう,私は私の責任のもと,何者にもなれなかった。そしてだからこそ,いまとなっては「何者かにならなきゃ」という余計な期待を抱くこともない。焦燥感もない。だからこそ,いまが心地よい。

それでいい。それでいいじゃないか。

 

タイトルは文中に書いた加藤登紀子の名曲・『時には昔の話を』から。

 

終わり。

夭逝はあきらめた

うせい【夭逝】

(名)スル

年若くして死ぬこと。若死に。夭折。「将来を期待されながらも-した」

 

大辞林第三版,三省堂,2006)

 

このブログでも折に触れて述べているように,私は今年で26歳になった。いわゆるアラサーである。そんな私も中学生くらいの頃には漠然と「25歳くらいまで生きられればそれでいいな」と考えていたし,「夭逝はカッコいい。長生きはダサい」とか「Don't trust over 30」とかなんとか言っていた。その理屈で言えば私はそろそろ死ななければならないわけだが,いまのところ死ぬ予定は全くない。少なくとも自死をする予定は。

 

「長生きはダサい」という感情を,中二病と言って切捨ててしまうのは簡単だ。口癖のように「死にて~」と言う若者だっていっぱいいるだろう。別にそれはそれで良いのだと思う。実際のところ本当に死ぬのはごくごく一部だし,大多数の死ななかったひとを「言ったからにはちゃんと死ねよ!」などと責めるべきではない。論理の一貫性と現実の正しさは必ずしも一致しないし,正論の刀は正論であるがゆえに常にひとを傷つける。

 

26歳になったもはや私は,夭逝をカッコいいとも思わないし,長生きをダサいとも思わない。それを私が年老いたからだと評価すべきなのかどうかはわからないが,結果として私は夭逝をあきらめ,「いま」を生きることを選んだ。過去でも未来でもなく,地に足の着いた「いま」を。

 

「いま」の地点から26年間を振り返ってみれば,とにかく私は逆張りに生きてきたようだ。本当は素直に生きたかったのだが,そのように生きてきてしまった。

 

小さい頃から子どもらしくない子どもだった。多数決でみんなが「A!」と元気よく手を挙げれば,特に理由もなく「B」と答えるような子どもだった。そしてBと答えてからそれを選んだ理由を考えるような子どもだったのだ。「みんなAって言うからB!」と答えるのではなく,理論武装をするあたりが嫌らしい。

 

逆張りもさることながら,すべての行為に理由を求めたがる子どもだった(これは今でもあまり変わっていない)。だからいまでもひとに「これをやって」と言われても「なんで」の部分がわからないと出来ない人間だ。同義語としては「めんどくさいやつ」というものが挙げられる。

 

小学生の頃,制服があった。「なんで制服を着なくちゃいけないの?」という疑問に大人は「ライカくんが入った学校に制服があるからだよ」としか答えてくれず,その不満はすぐさま「制服のない中学校に行きたい!」に繋がり,制服どころか校則すらない中高一貫男子校に入学した。私服を取る代わりに色んなものを失ってしまった気がするが,楽しかったし,それはそれで良いのだと思う。

大学に入っても「なんで興味のない講義に出なくちゃいけないの?」とか「なんでサークルのひとと一緒にごはん食べなきゃいけないの?」とか色々なことを考えていたら,キャンパスライフにおけるマジョリティーの輪からはじき出されるのはあっという間だった。そして「おまえらマジョリティーがそうするんだったら俺はよ……」という逆張り意識があったのは言うまでもない。だからどう過ごしたら楽しいかを自分で考えて,同じくマジョリティーから少し外れたひとたちと楽しく過ごした。それが悪いことだとは全く思っていないし,やっぱり楽しかった。

会社に入ると「なんで」が通用しない領域が増えてくる。学生の頃は意識しなかった,年長者の圧力に対して「なんで」を押し通そうとする勇気がいる。そしてそれと同時に,逆張りの意識がムクムクと頭をもたげてくるのだ。

前職で管理系の部門にいた時,社会人のシャツインしたワイシャツ+真っ黒いズボンの葬式みたいな組み合わせが大嫌いだった私は,せめてもの対抗意識として常にカーディガンを身に纏っていた。クールビズだろうが外気が35℃だろうがなんだろうが,カーディガンを羽織っていたのだ。先輩からは正気の沙汰ではないと言われたが,私は頑としてそれを着続けた。逆張りもそこまで来ると立派な気狂い(きぐるい)だ。

 

そうやって振り返ってみると,逆張り&理由付けが私の人生の指針なのだ,と思う。

元々私はすぐにひとからの言葉に病んでしまうような弱くてネガティブな人間だ。そもそも逆張りというのは多数派に与しない,ネガティブな行為を指すわけだし。生まれつきネガティブな人間だ。

そしてインターネットにはネガティブな意見が溢れている。「どうせ私なんか」「気持ち悪い」「不安だ」「意味ない」「死にたい」「つまらない」「帰りたい」「虚無だ」「バカだ」「鬱だ」とか。それらはポジティブな意見よりも圧倒的に多い。多数決を取ったらネガティブの方が多くの手が挙がるのだろう。

 

だからこそ,いまでは私は「ネガティブはダサい」と考えている。「みんなネガティブなんだったら,逆張りしてポジティブになるのがカッコいい」と。そういう逆張りのポジティブだってアリじゃないか。「いま」をポジティブに生きる。それ,とってもいいことなんじゃないの。

 

夭逝はあきらめた。逆張りでも何でもいいから,「いま」をポジティブに生ききってやろうと思った。

ところでそもそも「夭逝」というのはしばしば天才に対して使われる言葉であるところからして,あきらめるも何も凡才のアンタは……というのが実際のところなのだが,それはそれとして。

 

タイトルは南海キャンディーズ山ちゃん(山里亮太さん)の『天才はあきらめた』より。 

天才はあきらめた (朝日文庫)

天才はあきらめた (朝日文庫)

 

終わり~。